あいのことだま
杏奈が選んだのは、自宅最寄り駅から二駅先にある小さな産婦人科だった。


杏奈が十時ごろ産院に入ると、待合室は患者が一杯で座れないほどだった。

患者は妊婦だけではなかった。

妊娠とは関係なさそうな年配の女性もいた。
妊婦に連れて来られた幼児もいた。

若い女性一人で来ているのは杏奈だけだった。

妊婦は皆、幸せそうにみえ、杏奈は思わず目を背けた。


二時間以上待たされ、呼ばれた時には
十二時半を回っていた。

それでも、杏奈の後も待っている患者は大勢いた。

待っている間中、杏奈はミントの香りを嗅ぎ、悪阻と戦い続けた。


検査の結果、杏奈は妊娠八週目と診断された。


診察室で、杏奈は眼鏡をかけた小肥りの男性医師に言った。


「悪阻がひどくて、仕事が大変なんですけど…」

「悪阻だけは仕方ないね。赤ちゃん元気な証拠だよ。で、どうされますか?」

医師はカルテになにか書き込みながら杏奈に聞いた。

杏奈は黙り込んだ。

「どうしますか?」
医師はもう一度聞いた。

「わかりません…」
杏奈は掠れた声で答えた。

医師は杏奈を厳しい目つきで見た。

「相手の人とよく話し合ってね。
生めないなら、最初からちゃんと避妊しなきゃダメだよ。
あなたまだ若いじゃない。
一応、同意書渡すから。」


病院からの帰り道、歩きながら、杏奈はまたミントのスプレーを手首に吹きかけた。

ミントの香りを嗅ぐ。


履き慣れているはずのヒールのつま先が痛かった。

それはまるで杏奈の身体のバランスが、胎児の重みによって崩れてきているかのようだった。


『悪阻は赤ちゃん元気な証拠だよ。』


医師が言ったその言葉が、杏奈の胸を締め付けた。




留美の母から電話があったのは、翌日の夜10時ごろだった。

今、家に戻り、留守電で萌子のメッセージを聴いたと言った。


仕事か何か知らないが、丸一日、娘の家出に気がつかない留美の母に萌子は呆れた。


「留美もあんたの息子も馬鹿だねぇ〜ま、お金は少し待ってあげるよう。」

こんなに衝撃的な事件なのに、留美の母は意外にのんびりと言った。

「警察なんかに行っても無駄だろうしね〜留美、堕ろせなくなっちゃう〜」


変に語尾を伸ばす話し方に萌子は留美の母が酔っ払っている、と直感した。

なにが、堕ろせなくなっちゃう〜だ。

娘の体のことなのに、その言い方に萌子は心底腹が立った。
だが、余計なことを言ってはまずい。


「心当たりがあったら、よろしくお願いします。」

萌子がいうと
「心当たりなんてないけどね〜わかりましたあ。」

留美の母はそう答え、電話を切った。

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