隣人M

「克己」と「夕夏」

「何で……もう、朝?」
「いいや。ここには『朝』なんてないのさ。ああ、自己紹介しよう。俺は椎名和馬。職業は心療外科医。そしてこちらが……」
「自己紹介など無意味だ」


椎名の後ろから、まだ白煙の出ている銃を持ったあの女がじろりとにらんだ。


「……だそうだ。彼女は心療外科技師、今は俺に雇われている。まあ、助手みたいなものかな」
「夏彦は?夕夏は?」
「説明は難しいが、まあ早く言えば……」
「『死んだ』」


女は口元をゆがめた。化粧をしている様子はなかったが、唇は口紅を塗っているように鮮やかな赤色をしていた。それが妙に毒々しく克己の目に映った。


「……嘘だろ。二人ともどこかにいるんだろ?でも……さっきまで夜だったのに、なんか違う。ここも、場所が変わってる。どこなんだ?」
「さっきまでいたところさ。俺たちはこれっぽっちも移動していない」
「だって……さっきまで暗くて……」


克己は手をかざした。椎名は哀れむような目で克己を見下ろす。しっかり椎名の視線を跳ね返したかったが、光が眩しすぎてどうしてもできない。


「そんな説明は無意味さ。だって君はここで消えるんだからね」


椎名がにやりと笑って女に合図をした。彼女はちょっとためらったように克己から視線をそらしたが、ゆっくりと銃を彼に向けた。克己は小さく首を横に振った。


「なんで俺が……?俺が何をしたって言うんだよ!」


女は目を伏せた。ゆっくりと銃が下ろされる。それを椎名が片手で遮った。


「いい加減にしろ。いつまで甘えているつもりだ?」
「言っただろう。私はお前のモルモットではない、と」
「何が言いたい」
「この子を……しばらくこの子を私に預けてくれないか。もっと……その……観察してみたい」


ひどく弱々しい、しかし一歩も譲らないという強い意思を含んだ声だった。克己は期待を込めたまなざしで彼女を見たが、女は不快そうに顔をしかめた。


「誤解するな。同情しているんじゃない。よく自分の立場をわきまえておけ」
「いいか」


椎名がゆっくり諭し始めた。女はそっぽを向いて銃をホルダーにしまいこんでいる。


「確かに手術は失敗した。しかし、君はそんなことに囚われてはいなかったはずだ。完全に俺たちと同じではなくても、君は完璧なんだ。甘い情けなど捨てろ。そんなものは無意味だ。それに……いいか、こいつは克己を蝕んでいるんだぞ。分かっているのか!?」


いつも冷静な椎名が声を荒らげた。真剣な瞳だった。


「俺は克……」


女のまなざしが克己の口を閉じさせた。彼女はじっと克己を見ていた。どきりとするような艶っぽさと、厳しく冷たい眼光が共存している視線。克己は一瞬、その瞳に魅力を覚えた。


女はさりげなく克己の前まで歩いてきて彼に背を向け、椎名と向き合った。女の黒髪が目の前にあった。あまり手入れはされていないようだったが、不思議な光沢がある髪だ。かすかなコロンの香りがした。克己ははっとした。夕夏の誕生日に、一生懸命選んだコロンと同じ香りだ。問い詰めたかったが、この場ではまずいと思い直した。女は、克己の揺れる心を知ってか知らずしてかますます体をくっつけてくる。


「どんなに言葉を尽くして慰められようとも、私は所詮失敗作なのだ。お前にとって私は都合のいいモルモットにすぎないのだろう?生憎だが、今回はお前の指示には従えない」
「……ふん。そうか。そういうことか」


椎名はこわばった笑みを浮かべた。


「しかし、俺の助けがなければここから帰れないだろう?心療外科技師にはそんな力はない。まあ、余裕を与えないわけではないよ。俺たちの時間感覚で……」

「24時間。1秒でも過ぎれば、俺がこいつを強制転送するか、俺自身で始末しに来るか、どちらかの手段を取る」
「始末するのは私の仕事だ」
「わがままだ、それは。そんな感情は俺たちには必要ない。必要なのは、効率性だけだ。……それから、お前」


椎名が克己を見やる。


「勝手に『克己』と名乗るな。分かったか。お前にあるのは、『302』という番号だけだ」
「俺は克己だ。結城克己だ!夏彦を、夕夏を返せ!」


叫んだとたんに、克己の腰に激痛が走った。克己はうめきながらうずくまる。腰が焼けつくように熱い。椎名が何やら指先で弄びながら、冷たく笑った。


「スタンガンの改良型さ。まあ、この環境に害はない。それでは、失敬」


克己は治まらない激痛の中で、椎名が女の耳に口を寄せてささやくのを聞いていた。


「じゃあな、夕夏」


続いて、ぱん、と頬を叩く音が響いたかと思うと、辺りは静まりかえった。克己は暗闇の中へ、深い深いどこかへ落ちていくような錯覚を覚えていた……。
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