隣人M

椎名、その思い

椎名は少し後悔していた。奴に、知られたかもしれないな。言い様のない不安に襲われ、そっと白衣の衿をつかんだ。これを着ていないと、自分の人格が保てないような気がする。あの世界にいた頃は本当にイライラしていたもんだ……椎名は苦笑した。彼は302番のことを克己だとは思っていなかった。いや、思えなかった。彼は髪を少しかきあげた。心配だった。彼女の思惑を読み取ることができなかった。いつからだろう。こんなもどかしさを覚えなくなって久しい。あの手術のせい……それは間違いない。あの戦争のせい……それも間違いない。少しだけ昔が懐かしくなった。


「俺も、手術の失敗作かな」


デスクでぼそりとつぶやくと、秘書がぴくっと眉を動かし、まさにコーヒーカップを置こうとした手を止めた。ちらりと大きな目が長めのカールした前髪からのぞく。


「はい、何か?」
「なんでもないよ。……ああ、そうか。君はまだ新人だったね。覚えておいてもらいたいが、僕は紅茶が好きなんだ」
「あ……申し訳ありません」
「いや、いいんだ。さて、今は……」


椎名は時計を見た。針は4時30分を指していた。できるだけにこやかに言う。


「もう用はないから、今日は帰っていいよ」
「は?」
「別に給料を差し引くわけじゃない。気にしなくていい。君もたまにはゆっくり休みたいだろう。……ところで君は、あの手術を受けたことがあるんだね?」
「ええ。ここの秘書募集広告の応募資格欄にそうありましたもの。それが何か?どこか不審な点でも?」
「いや。君は完璧だ」


秘書は無表情のまま、黙礼して出ていった。椎名は彼女の姿がドアの向こうへ消えていくのをじっと見ていた。


椎名はそのまま腕を組み、椅子の背にもたれかかって天井を見上げていたが、急に思いついたように、デスクの上にきちんと整理されたファイルの中から、1枚の紙をつまみ取った。それを自分自身に言い聞かせるように、ゆっくり読み上げる。


「秘書採用者。旧名、山口あすか。推定年齢、24歳。手術の経験あり。執刀者、旧名神楽夏彦……」


そこまで口に出したとき、隣の部屋に通じるドアが音を立てて開いた。


「ナツ……ナツ、ヒコ……?」


少し背が椎名よりも低い青年だった。髪の毛はぼさぼさ、血の気は失せて頬もこけ、痩せほそって目は虚ろだった。しかし、着ているものは清潔で、世話をちゃんと受けているらしい。足どりは覚束なかったが、それでも椎名の姿は認めたらしく、ゆっくり歩み寄ってくる。その様子は亡霊のようだった。

椎名は青年の側に行き、その体をゆっくり抱き留めた。彼の痩せほそった背中に腕を回し、大きな掌で優しくさすった。母親が子どもにするように、一定のリズムでぽん、ぽんと優しく、温かく、力強く……。青年は椎名の肩に顎をのせてただじっとしていた。椎名は、あふれる涙に驚いた。バカな、こんなことが……。自分が泣いている、そんな感情が残っているとは思わなかった。


「ああ、夏彦はここだ。大丈夫。心配するな。俺は医者なんだ。お前はすぐに良くなる……」


椎名はあふれる涙を拭おうともしないで、青年をかき抱いた。手術をした仲間……完璧な仲間を求めて、秘書としてあの子を雇ったが、何の慰めにもならない。なぜ?なぜ、俺は仲間を……無意味だ、馬鹿馬鹿しい。寂しさなんて、そんなものは残っているはずがないのに。


椎名は無理に青年の体を引き剥がそうとした。しかし、彼はなすがままにはならなかった。ゆっくり、たっぷり二分はかけて椎名を見上げた。目が細くなる。口元がほころぶ。しかし、椎名には……医者たる椎名には分かっていた。それが、ただの虚ろな笑み、意味のない笑みであることが。


「克己。お前なんか……親友じゃない。お前なんか……」


椎名は彼に背を向けた。すると、背中に温かくやわらかいものがそっと押し付けられた。不思議に思って振り向くと、克己が片方の耳をぴたりと椎名の背中にくっつけていた。


「海の声……」


椎名は何も言わなかった。黙って目を伏せた。腕の古傷がちくりと痛んだ。
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