隣人M

鳥になりたい

夕夏は、克己のマンションの周辺にバリアを張っていた。「あれ」を保護するために。克己の心が崩壊していくのと共に、マンションも音を立てて崩れ始めていた。


作業をしやすいように、夕夏は長い髪を無造作に紺のゴムでひとつに束ね、ぴっちり体に張り付いた服の袖をまくりあげた。

白い外壁にはひびが入り、建物は揺れ始めている。彼女は腰につけた皮の袋から様々な機械を取り出して、慣れた手つきで操作する。やがて赤いランプが点滅し、用意ができたことを告げる。


充電完了。


夕夏が細い指でボタンを押すと、モニターに表示された範囲に、透明なシールドが張られる。少し調子が狂ったらしく、雑音が入り、放電している。それでも夕夏は顔色ひとつ変えずに、淡々と仕事をこなす。


仕事人の目だった。


夕夏はふうっとため息をつき、軽くこめかみを押さえた。ここからあとは、機械のオートモードに任せればいい。


彼女は、自分の周りに休憩用の特殊シールドを張った。夕夏の細い体がふわりと宙に浮く。


……この瞬間が好きだった。まるで自分が鳥になったような、不思議な陶酔感。心地よかった。落ち着いた。この時間のためだけに、夕夏は仕事をこなすのだ。


彼女はちょっと体を倒して、手で宙をかいてみた。無意味なことだと知りながら。思わずもれた美しい笑みが悲しげだった。


「鳥になりたいの、あたし」


そんな子どもじみたことが言えた昔が、懐かしくてたまらなくなる。そんなとき、いつでもそばに克己がいた。克己はあたしに尋ねたっけ。


「なんで?」


「鳥は、自由に空を飛べるわ」


あどけない顔をしたあたしは、素直に言ったの。手紙をもらって行ったシャンパニオン公園で、幼なじみの克己……負傷した克己に再会したのは、あの秋の午後。血の流れる克己の腕に包帯を巻いてあげた直後だったと思う。克己が、力がなくてゆるく包帯を巻いたあたしに変わって、自分できゅっと巻き直していた横顔……汗をぬぐった顔を覚えているから。


「そう思う?夕夏は変わらないな。もう、16だろ?」


「何よ。そんなに笑わないでってば。何かおかしいこと言った?」


克己は暑そうに、のろのろと木陰に移動して、空を仰いで言った。


「鳥は、空を飛べる。でも自由に、じゃなくて生きるためなんだよ。必死で生きてて、必死で飛ぶんだ」


それから、克己はちょっと照れたように言った。


「夕夏、来てくれてありがとう。バースデープレゼントがあるんだ。気に入ってくれたらいいな」

「ありがとう、克己……」


手渡されたコロン。ふわりと甘い香りがした。


克己はまだポケットのあたりを押さえていたけれど、じっと考え込んでいた。そして顔を上げて、真剣な目でこう言った。


「もし俺が、生きて終戦を迎えたなら、兵役義務が切れる24歳のこの日、この時に、このシャンパニオン公園で会おう。渡したいものが、あるんだ」


「わかったわ」


一緒に見上げた空に、小さな鳥が1羽、翼をいっぱいに広げて飛んでいた。下からは白いおなかしか見えなかったけれど、きっと真剣な瞳で、必死に飛んでいるんだ、と思った。


そのとき、あたしの肩を克己が抱いてくれた。心臓が高鳴るのが聞こえないか心配だったけれど、聞こえてほしいっていう願望もあった。体が熱くなって、震えたけれど、克己はますます手に力をこめてきた。そして耳もとでささやいた。
熱い吐息が頬で感じとることができた。


「俺は、人間でよかったと思ってるよ。空は飛べないけれど、それでも夕夏とこうしていられるからさ」
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