隣人M

夢の世界で

夕夏はつぶやいた。頭の中で、もつれた糸がほどかれて一本になった。気づかなかった。ただ、この世界は克己の疑似人格が住むところで、偽りの記憶だとしか思っていなかった。


夕夏はシールドにそっと手を当てて、完全に保護されたマンションをいとおしそうに眺める。


普段は意識しないが、椎名の旧名は神楽夏彦だった。心の手術……完璧な、欲も何も持たない人間へとなるには、様々な犠牲を伴う。名前もそのひとつだ。心療手術を受けた人間は、元の自分を連想させるものを極端に嫌うため、名前を変える。夏彦の場合は、椎名和馬という名だった。


夕夏は彼から手術を受けた。不成功に終わったけれども。彼は「君は完璧だよ」と言ってくれるが、夕夏はあまりそうは思っていない。克己に、また自分のことを「夕夏」と呼んでほしくて改名しない自分に気づいているからだ。


しかし、あれは許せなかった。克己の心の中に住み着く「16歳の夕夏」の存在。あれでは不完全な人間だ。克己はあたしのことをあんな風にとらえていたの?ちがう、ちがう!私は、完璧だ!そう激情に駆られて、椎名に反対されたものの「夕夏」を「殺し」た。でも、一緒にいた「夏彦」が抵抗した。深い傷を負ってまで……。


今、夕夏は確信していた。ここが、克己の果たされなかった夢の世界であること。普通の高校生活。普通の家庭。そうか、克己は勉強したかったんだ。死んだお父さんやお母さんと一緒に暮らしたかったんだ。バスケット部に入りたかったんだね。一番親しかった夏彦と。楽しい夢……ううん、哀しい夢ね。克己が、こんな夢を抱いていたなんて知らなかった。あんなに長い間、二人で肩を寄せあって生きていたのに、ちっとも顔に出さないで。いつもそうだった。あたしばっかり甘えて、克己はいつも慰め役。こんなときでもずるいんだから。あたしだって、もう親を殺されて泣いていた6歳の女の子じゃない。


そう、そういえば、克己、あのとき尋ねたね。


「お前、夏彦のことどう思う?」

確か、怪我をした夏彦のお見舞いに行ったとき。克己があんなに夏彦と仲がよかったなんて知らなくてびっくりした。あたしは、克己に少し妬いてもらいたくて答えた。


「いい人ね。夢があって、バスケットがうまくて、かっこよくて。好きになっちゃったかも」


「……そうか」



克己、少し笑った……。そのまま言い直すこともできなかった。だから、克己はきっとあたしが夏彦のことを好きなんだって思ったんだ。そして、この世界で二人を一緒に帰らせた……「夏彦」と「夕夏」を。夏彦にナイトの役までさせて。


……バカ。バカみたい。ふん、バカだ。


「克己は、ただの……知り合いだから、治療を……」


夕夏はぽつりとつぶやいた。言い訳。完璧な人間が一番嫌うもの。今は、克己への思いを抑えなければ、涙があふれそうだった。そんな自分がみじめだった。ぐっと握りしめた拳が震える。


突然、シールドが消滅し、夕夏は気づくと椎名の腕の中にいた。



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