隣人M

永遠の眠り

夕夏は、椎名の頭を膝の上に乗せて、座り込んでいた。どうやって、シャンパニオン公園に戻ってきたのか分からない。ただ、克己を転送した後、自分とおぼしきあの女性が現れて、ゆっくり手招きをした、そこまでしか記憶にない。気づいたら、ここにいたのだ。

椎名の土に汚れた顔を、指でなぞってそっとぬぐうと、「彼女」の言葉がぼんやりと心の片隅に残っていることに気付いた。「彼女」は、夕夏の耳元でささやいたのだ。

「わたしは、あなたよ。気持ちの片割れ……。克己を想い、克己から想われる心の……。あなたには、誰を想う心が残っているの……?」

夕夏は、何も答えなかった。答えられなかった。ひどい痛みを感じたのだ。「彼女」は、また言った。

「誰でも矛盾した内面を持つものよ。それが、あなたたち人間。そして、それが、人間らしさこそが、椎名の贈り物。8年後の未来は、克己の贈り物。あなたは、二人のことが好き……」

そして、にっこり笑って、こう言い残して姿を消した。

「二人とも、あなたにとってかけがえのない存在よ」

夕夏は、リングと椎名の色失せた顔を交互に見つめた。

地割れがひどいが、樹の周りだけは、揺れもせずに安定していた。夕夏は椎名の手を取った。冷え切っていたが、夕夏はかまわず自分のほおにそっと触れさせた。

「8年後に、また、克己と会えるわ。私たち、これでよかったのかな」

椎名は何も答えなかった。夕夏は話し続ける。まるで椎名の絶えた命が、いきいきとよみがえり、笑って彼女の話に耳を傾けているかのように。

「あなたの紅茶が、また飲みたいわ。あったかい、湯気の立つ紅茶。あの管理人室に行けば、また淹れてくれるわね。まだ、私の好きなあのケーキは置いてあるのかな。先日行ったら、あんなにあったのに、私が全部食べちゃって、ケーキ切らしちゃったのよね。確か、『客が来るのに』って困ったように笑ってたっけ……。ねえ、あそこで誰に会ったの?いつも一緒にいて、何でも知っていると思っていたのに、何一つあなたのことを知らない気がする。克己のこともそうね。少しだけ、悔しい……。でも、今だけは、違うね……」

夕夏は、しっかりと椎名をかき抱いた。そして、子守唄を静かに歌った。涙を落とさないように、ぐっとこらえながら。

かすかに口元に笑みを浮かべた青年医師は、愛した女の腕の中で、永遠の眠りについていた。

寝息を立てることもなく、静かに。 
< 34 / 37 >

この作品をシェア

pagetop