金木犀ホリック
もやもやと広がる不安を抱えたまま、数日が過ぎた。
仕事帰り、ふらりと書店に立ち寄った私は、医療関係の書棚の前に立ち尽くしていた。読めば、徒(いたずら)に不安を煽るだけだと分かっているのでどうにも手が出ず、表紙にただ視線を投げる。
『わかりやすい乳癌のお話』
『知っておきたい女性の癌』
『治せる、最新癌事情』
文字だけで足が竦むのを感じてしまった情けない私は、書籍を手にすることもなく、店を出た。
重たい足運びで、夜更けの街を歩く。秋も深まってきたせいか、少し肌寒くて、それが沈んでいく思いを倍増させた。
気持ちを持ち上げようと、思考を巡らす。少し手をかけた料理を作って、とっておきの日本酒を開けようか。そうだ、日本酒好きの源至に声をかけたら喜ぶかもしれない。源至を呼ぶのなら、鶏つくねを作ってあげよう、軟骨入りのそれは私の得意料理の一つで、源至の好物でもあるのだ。
「えー、帰るなんてやだぁ! そんなの!」
前方で、甲高い叫び声がして、俯いていた顔を持ち上げた。見れば、それは可愛らしい女性で、彼氏らしき男性の腕を取って何やらせがんでいるようだった。男性の顔を見上げ、ネコのように甘えた声を出す。
「もっと一緒にいようよ、ねえ、お願い!」
「うーん、それは、ちょっと。わがまま言わないで、ね?」
困ったように笑ってたしなめている男性は、他でもない源至であった。そういえば、今日はやたら急いた様子で退社したな、と思い出す。デートだったのか。
もめ事の最中のようだし、気付かなかったふりをして迂回しよう、そう思って踵を返そうとしたとき、間が悪くも源至と目が合ってしまった。「雪ちゃん」と源至の唇が動く。
これは、このまま通り過ぎるしかないか。胸の中でため息を一つついて、歩を進めた。
「こんなところで奇遇ですね、北垣先生」
「あ、ええと、その」
「生徒がどこで見ているか分かりませんので、気をつけて下さいね」
「あ、いやそういう」
動揺している様子の源至にどう言葉をかけていいのか分からなかったので、上司の顔をして言ってみたものの、少し嫌味だったか、と思う。しかし、吐き出してしまった言葉を回収することはできない。せめて厭らしい印象を与えないように、口角をぐ、と持ち上げた。
「ねえ、源くん、このひと誰?」
「あー、えと……」
「じゃあ、失礼します」
会釈を一つして、足早に通り過ぎた。彼女の香水だろうか、通り抜けざまに、ふわりとお菓子のような甘い香りが鼻腔を擽る。それに反応するかのように、鼻の奥がツンと痛んだ。
「ねえってば。誰?」
「あー、上司……」
背中の会話を断ち切るように足を速めた。ヒールのないパンプスはこんな時、抜群に役に立つようだ。
カッカッ、と荒い音を立てながら、私はついさっき目にした女の子の容姿を繰り返し思い返していた。源至よりも低い身長、こぼれそうに大きな瞳の、可愛らしい顔立ち。愛でられるための蠱惑的な香り。彼女は、咲き誇り、愛でられるべき花だった。
源至に、私のことを訪ねている彼女の声には棘があった。私を女と認めてのことだとしたら、愚かなことだ。枯れ落ちてゆくのみの、こんな私が、彼女に何の害を与えられようか。
源至だって、彼女にはっきりと『上司』だと説明する必要などなかったのだ。少し考えたら分かることではないか。彼を常に見下ろして会話していた私など、そういう対象になるはずがない。
ふ、と足を止めた。どうしてこんなにも、私はさっきのことを気にしてしまうのだろう。
今までだって、源至が女性と仲良くしているところを見てきた。一度など、抱き合っているシーンに立ち会わせてしまった。でも、ここまで、心に動揺を走らせることはなかった。傷つかなかったと言えば嘘になるが、気持ちの誤魔化し方くらい身についているので、仕方のない事と片づけられたのに。
いや、理由は分かっている。私は今、気弱になっているのだ。病と言う暗い影に怯えてしまっているせいで、心の寄る辺を求めてしまった。それが恋心を抱いている源至で、しかし現実を目の当たりにして、ショックを受けているのだ。
情けない、と自嘲の笑いが零れた。源至は隣人で部下でしかなく、縋るなどあり得ないことだと自分でも理解していたではないか。それが、たかが数日で根をあげてしまいそうになっているなど、情けないにもほどがある。
しっかりしなさい、と自分に言い聞かせ、大きく頭を振ってから、アパートへ続く道を再び歩き出した。
仕事帰り、ふらりと書店に立ち寄った私は、医療関係の書棚の前に立ち尽くしていた。読めば、徒(いたずら)に不安を煽るだけだと分かっているのでどうにも手が出ず、表紙にただ視線を投げる。
『わかりやすい乳癌のお話』
『知っておきたい女性の癌』
『治せる、最新癌事情』
文字だけで足が竦むのを感じてしまった情けない私は、書籍を手にすることもなく、店を出た。
重たい足運びで、夜更けの街を歩く。秋も深まってきたせいか、少し肌寒くて、それが沈んでいく思いを倍増させた。
気持ちを持ち上げようと、思考を巡らす。少し手をかけた料理を作って、とっておきの日本酒を開けようか。そうだ、日本酒好きの源至に声をかけたら喜ぶかもしれない。源至を呼ぶのなら、鶏つくねを作ってあげよう、軟骨入りのそれは私の得意料理の一つで、源至の好物でもあるのだ。
「えー、帰るなんてやだぁ! そんなの!」
前方で、甲高い叫び声がして、俯いていた顔を持ち上げた。見れば、それは可愛らしい女性で、彼氏らしき男性の腕を取って何やらせがんでいるようだった。男性の顔を見上げ、ネコのように甘えた声を出す。
「もっと一緒にいようよ、ねえ、お願い!」
「うーん、それは、ちょっと。わがまま言わないで、ね?」
困ったように笑ってたしなめている男性は、他でもない源至であった。そういえば、今日はやたら急いた様子で退社したな、と思い出す。デートだったのか。
もめ事の最中のようだし、気付かなかったふりをして迂回しよう、そう思って踵を返そうとしたとき、間が悪くも源至と目が合ってしまった。「雪ちゃん」と源至の唇が動く。
これは、このまま通り過ぎるしかないか。胸の中でため息を一つついて、歩を進めた。
「こんなところで奇遇ですね、北垣先生」
「あ、ええと、その」
「生徒がどこで見ているか分かりませんので、気をつけて下さいね」
「あ、いやそういう」
動揺している様子の源至にどう言葉をかけていいのか分からなかったので、上司の顔をして言ってみたものの、少し嫌味だったか、と思う。しかし、吐き出してしまった言葉を回収することはできない。せめて厭らしい印象を与えないように、口角をぐ、と持ち上げた。
「ねえ、源くん、このひと誰?」
「あー、えと……」
「じゃあ、失礼します」
会釈を一つして、足早に通り過ぎた。彼女の香水だろうか、通り抜けざまに、ふわりとお菓子のような甘い香りが鼻腔を擽る。それに反応するかのように、鼻の奥がツンと痛んだ。
「ねえってば。誰?」
「あー、上司……」
背中の会話を断ち切るように足を速めた。ヒールのないパンプスはこんな時、抜群に役に立つようだ。
カッカッ、と荒い音を立てながら、私はついさっき目にした女の子の容姿を繰り返し思い返していた。源至よりも低い身長、こぼれそうに大きな瞳の、可愛らしい顔立ち。愛でられるための蠱惑的な香り。彼女は、咲き誇り、愛でられるべき花だった。
源至に、私のことを訪ねている彼女の声には棘があった。私を女と認めてのことだとしたら、愚かなことだ。枯れ落ちてゆくのみの、こんな私が、彼女に何の害を与えられようか。
源至だって、彼女にはっきりと『上司』だと説明する必要などなかったのだ。少し考えたら分かることではないか。彼を常に見下ろして会話していた私など、そういう対象になるはずがない。
ふ、と足を止めた。どうしてこんなにも、私はさっきのことを気にしてしまうのだろう。
今までだって、源至が女性と仲良くしているところを見てきた。一度など、抱き合っているシーンに立ち会わせてしまった。でも、ここまで、心に動揺を走らせることはなかった。傷つかなかったと言えば嘘になるが、気持ちの誤魔化し方くらい身についているので、仕方のない事と片づけられたのに。
いや、理由は分かっている。私は今、気弱になっているのだ。病と言う暗い影に怯えてしまっているせいで、心の寄る辺を求めてしまった。それが恋心を抱いている源至で、しかし現実を目の当たりにして、ショックを受けているのだ。
情けない、と自嘲の笑いが零れた。源至は隣人で部下でしかなく、縋るなどあり得ないことだと自分でも理解していたではないか。それが、たかが数日で根をあげてしまいそうになっているなど、情けないにもほどがある。
しっかりしなさい、と自分に言い聞かせ、大きく頭を振ってから、アパートへ続く道を再び歩き出した。