脱力系彼氏
 少し早い、蝉の鳴き声。
ジリジリと鳴くその声は、今の暑さを音で表わしたかのような声で、聞く度に気が滅入ってしまう。せっかくのクーラーも、どこか効いていないかのような錯覚まで起こさせる。

そんな中、あたしは濡れた髪をも無視して必死にマスカラを塗り続けていた。
くるんと上がった睫毛が、より鮮明になっていく。
鏡で見る度に嬉しくなってくる。

「綾……あんた、プールの後だって言うのに、よく頑張るねー」

いつもより顔が薄い冴子が、呆れた表情であたしを見た。
でも、その言葉で更に嬉しくなってくる。

「だって、今日は昇ちゃんと一緒に帰れるんだもん!」

自然と語尾が跳ねてしまう。そんなあたしを見て、冴子は溜め息を吐いた。

「はいはい。全くあんな男のどこがいいのか……」

「あんな男、って何」

少しムッとして冴子を睨む。いくら冴子と言えど、昇ちゃんをけなされるのは聞き捨てならない。

冴子は、ほとんどないに等しい眉をキュッと顰めた。

「昇ちゃん昇ちゃんって……。羽鳥昇の、どこがいいのさ、あんな脱力系男!
 学校に寝癖のまま、ビーチサンダルで来るような男だよ? あたし、去年クラス一緒だったけど、“あー、だりぃ”と“めんどくせー”しか、喋ってんの聞いた事ないし。あたしには、あの男の良さが全く分かんない」

「……いいよ、別に。冴子に分かってもらえなくても」

「あたしは、あんたにあんな訳分かんない男と付き合って欲しくないの!」

睫毛に沿って上下していた手が止まる。

「昇ちゃんは……訳分かんなくなんかないよ」

あたしが消えそうな声でそう呟くと、冴子はさっきより深く溜め息を吐いた。

「……綾。泣いても知んないよ?」

「……うん」

頷くと、冴子は傷んだ長い髪を器用にくるりと捩じり、大きなピンで留めてスタスタと自分の席に戻った。あたしを映す鏡に、冴子の濡れた髪からいくつか水滴が飛んで来た。

マスカラの蓋をくるくる回し、オレンジ色のポーチの中へ入れる。
濡れた髪を乾かそうとタオルに手を伸ばすと、携帯電話のディスプレイに表示された時計が目に入った。

「やば! もう行かないと、昇ちゃん帰っちゃう」

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