ふたりぼっち兄弟―Restart―【BL寄り】


 下川治樹の表情がふたたび険しくなる。
 身に覚えがあるのか、チラシに走り書きする筆圧が強くなるのを、勝呂はバッグミラー越しに目撃した。

『あと、福島道雄という人が二重契約をしたとか言っていました』

 福島道雄? それは……。

『兄さま。お父さんの下の名前って道雄でしたよね? ……もしかして』

「那智。苗字がちげぇよ。親父の名前は仁田道雄だ。道雄なんてどこにでもある名前だぜ? 俺達の父親として名乗る場合は下川道雄。別家族の父親を名乗るなら仁田道雄。それ以上の苗字は持っちゃいねえよ」

 下川治樹はうそをついている。
 仁田道雄は苗字を複数使い分けており、婿入りした男なので離婚前は『福島道雄』。離婚後は旧姓の『仁田道雄』。そして下川兄弟の父親として名乗る場合は『下川道雄』と三つに使い分けをしていた。
 ゆえに『福島道雄』は下川那智が想像しているように、その正体は実父であるが、下川治樹は違うとうそをついた。それはきっと弟のためを思ってのことだろう。下の名前が同じなのは偶然だと返事していた。

 下川那智は良くも悪くも純粋で素直、特に兄に対しては顕著にそれが見られるので、『考えすぎでした』と力なく笑った。


――ガウン。


 会話を裂くような発砲音が、携帯越しから聞こえた。
 ひっ。息を呑む下川那智はいまのは一体何の音だと恐怖した直後、『と、鳥井さんがいるっ』と言って、バタバタと足音を立てた。見つかったようだ。下川那智に向かって怒声を張る声が聞こえ、携帯を落とす音が聞こえ、やがて下川治樹の携帯は物音だけしか音を拾わなくなる。今後は下川那智と通話することができないことを車内に教えてくれた。

「勝呂っ!」

 益田が声を荒げたと同時に勝呂は山道に入った車道を睨み、アクセルを強く踏み直した。

「あと五分待ってください。五分で着きます。必ず五分以内に着かせます」

 荒々しくハンドルを切って、曲がりくねった山道を突き進む。
 雨天の夜は視界が悪く、運転する勝呂の集中力を削ってくるが、なおもアクセルを踏み込んで、宣言通り五分以内に目的地となる鉄工場廃墟に到着する。数十秒も経たない内に応援の警察も到着。すでに到着している警察は鉄工場廃墟を捜査し始めていた。小規模だが中々の広さがある鉄工場廃墟のどこかに被害者の下川那智はいる。何が何でも探し出せ、と怒号が聞こえた。サイレンが鳴り響いているせいで、その場はかまびすしい音にまみれていた。

 勝呂がブレーキを踏んで車を停めたと同時に、後部席のドアが勢いよく開き、下川治樹が飛び出す。
 後部席に座っていた柴木が腕を掴もうとするも、下川治樹の方が素早い。
 降りしきる雨の中、警察の制する声を無視し、道を塞ごうとする者がいれば、パトカーのボンネットを踏み越えて、無理やり自分で道を作って鉄工場廃墟へと飛び込んでしまう。

 あれは本当にただの大学生なのか。畏怖の念を抱くほど、下川治樹の動きは軽やかだった。止める暇もなかった。

 益田は「勝呂。柴木。すぐ追うぞ!」と声を張って、助手席のドアを開けた。

「兄ちゃん。やっぱり感情が爆発しちまった。このままじゃ何をしでかすか分からねえっ。あの顔、ぜってぇやらかす」

 なにせ、車を飛び出した際の、下川治樹の表情はどこまでも冷たく、どこまでも能面で、とことん他人を甚振りたい、そのような顔をしていた。
< 212 / 293 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop