泡沫(うたかた)の虹
そう言いたげな顔で腰を浮かしかける嘉兵衛を、清兵衛は穏やかな調子で引きとめていた。

「心配することはない。そのために、弥平次を迎えにやったのだからな」

清兵衛の声に、嘉兵衛は言葉を失っている。今まで、そういう時に糸を迎えに行く役目は自分だったのではないか。そう言いたげな光がその目には浮かんでいる。

「何か不満でもあるのかな? 番頭であるお前をいつも迎えに行かせていては、周りに示しがつかないだろう。お前がいないと店は回らないのだぞ」

その声は、清兵衛が嘉兵衛のことを心から信頼している、ということを示している。だが、嘉兵衛にすれば、外で糸と二人っきりになれる方が大事なのだ。糸を自分に溺れさせたいと思っている彼にとって、店のことよりも糸の方が大事。

しかし、そのことを口にすることができないことを分かっている彼は、清兵衛の言葉に納得したような顔をする。

「旦那さまがそうおっしゃるのでしたら。しかし、急に暗くなりましたね。雨にならなければいいのですが」

その声に、清兵衛も思わず外を確かめるように眺めている。たしかに、外は急に暗くなり、いつ、雨が降ってきてもおかしくない。そんな空模様を見ている彼の目には、早く糸が帰ってくればいいのに、というような色しか浮かんでいなかった。

そして、井筒屋の主人と番頭が互いに思いのズレを発生させながら話を続けている時。弥平次は主人の言葉に従って、糸を迎えに行く足を急がせていた。

今日も糸はお茶の師匠の家に出かけている。いつもなら、下女の菊が一緒なのだが、この日は途中で気分が悪くなったといって、菊だけが先に戻ってきていたのだ。

どうして、糸も一緒に戻らせなかったのだ、という清兵衛の叱責に、菊は震えあがるしかない。もっとも、体調の悪い彼女をいくら責めても駄目だ、ということを清兵衛もわかっているのか、あまり深く追求しようとはしない。それよりも、糸が一人で帰ってくる道の方を心配した清兵衛は、店の若い衆を迎えにやることにしていたのだ。

そして、清兵衛の思いが、帰宅の道が安全であるように、というのならば、少しでも早くお茶の師匠の家に行かないといけない。そう思った弥平次は、小走りで教えられた家へと足を向ける。

その彼の容姿は、人目を引くのは間違いないもの。すらりとした姿の彼が息を切らして走っている姿に、道を歩く女たちは思わず見とれている。そんな女たちの視線を背に受けながら、弥平次は教えられた家の扉を叩いていた。

「どちらさまでしょうか」

穏やかな女の声が家の中から返ってくる。それを耳にした弥平次は、走ったことで切らした息を整えながら返事をしていた。

「井筒屋でございます。お嬢さまをお迎えにまいりました」

その声にパタパタという軽い足音がすると、がらりと引き戸が開けられる。引き戸を開けたのはここの内弟子でもある娘だが、戸口に立っていた弥平次を見た途端、頬を色づいた紅葉のように染めていた。

「あ、わざわざご苦労様です。井筒屋のお嬢さんは、お師匠さんと話をされています。もうすぐ、お話しも終わりますので、よろしければこちらでお待ちください」
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