泡沫(うたかた)の虹
そう言いながら、娘は弥平次を家の中に案内しようとする。それに対して弥平次は、柔らかい微笑を浮かべながらも、はっきりとした口調で断りをいれていた。

「いえ、それはできません。わたしはお嬢さまのお迎えにきたのですから。お話しが終わるまで、ここで待たせていただきます」

「でも、お話しは長くなるかもしれません。それまで、私がお相手をするようにと師匠からもいいつかっております」

内弟子の娘は、なんとか弥平次を家に上げようと必死になっている。それが師匠から言われただけという風には感じられない、と弥平次は思っている。この場は、逆らわずに言葉に従った方がいいか、と彼が思い始めた時、家の奥から別の足音と話声が聞こえてきていた。

「ずいぶんと長く、お引き留めいたしました。それでは、井筒屋さんにもよろしくお伝えください」

「はい。おとっつぁんも何かあれば、いつでも力になると言っております。師匠がお探しの茶器のことは、私からもお願いしてみます」

「そうしていただけると、本当に助かります。でも、井筒屋さんにはいつも、無理ばかりお願いしていますのに、本当によろしいのですか?」

ちょっと不安そうなその声は、お茶の師匠である登与のもの。その師匠の不安を払うように、糸の明るい声が応えている。

「大丈夫に決まっているじゃないですか。それと、今日は菊のことで、逆にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

そう言いながら、糸は大きく頭を下げている。そんな彼女に登与は穏やかな調子で応えていた。

「そんなに気にしないでもいいのよ。あら、お迎えが来ているのではないかしら。ま、今日はいつもの方じゃないようね」

戸口で内弟子の娘と押し問答をしている弥平次の姿に目をやった登与は、驚いたような声をあげている。今まで、井筒屋から糸を迎えに来るのは番頭である嘉兵衛、と決まっている部分があったからだ。

しかし、今日の相手は彼よりも若いように見える。一体、誰なのだろうと登与が首を傾げた時、糸も相手の姿にポカンとした表情を浮かべていた。

「弥平次じゃないの。どうして、嘉兵衛じゃないの?」

その声に、弥平次は穏やかに微笑むだけ。その姿がまるで絵にでてくる役者のようだと思った糸は、耳まで真っ赤になってしまう。

「お嬢さま、お加減でもお悪いのですか?」

弥平次の問いかけに、糸はぶんぶんと頭を振ることしかできない。そんな彼女に、弥平次は態度を崩すことなく、スッと手を差し出していた。

「それでは、お店に戻りましょう。なんだか雨になりそうですから」

その声に、糸は慌てて登与に暇乞いをすると弥平次に連れられて外に出る。空を見上げてみれば、たしかに今にも雨が降り出しそう。そう思った糸は、弥平次を急かすように道を急いでいた。

「ねえ、弥平次」

「何でしょう、お嬢さま」
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