泡沫(うたかた)の虹
そして、彼もそんな糸の思いをわかっている。彼女を腕に抱いた弥平次の口からは、糸を安心させる声しか漏れてこない。

「大丈夫です。旦那さまは気がついておられません。それよりも、今日はお嬢さまにお渡ししたい物があるんです」

そう言うと、弥平次は袂から小さなものを取り出すと、糸の目の前にそれを差し出していた。それが、可愛らしい細工の簪だということを知った彼女の目が喜びに輝く。

「弥平次。なんて可愛らしいの。でも、無理をさせたんじゃないの? あなたの給金で、こんなのを買うのは大変なんじゃないの?」

弥平次が差し出した物は、いつも糸がつけている花簪ほど大きいものではない。それでも、細工物のこれが手代の給金で簡単に手に入るものではないことに糸は気がついている。

恋人に無理をさせたのではないか、と不安がる糸に、弥平次はしっかりとした声でこたえていた。

「心配しないでください。愛しいお嬢さまに贈る物です。お嬢さまが喜んでくださるのが何よりです」

弥平次のそんな声に、糸は頬を真っ赤に染め、彼の胸に顔を埋めるだけ。そんな彼女の髪を弥平次は愛おしそうに撫でている。その彼に、糸は甘えたような声でしなだれかかっていた。

「弥平次、それをつけて」

その声に、弥平次は驚いたような表情を浮かべている。それでも、自分が贈ったものをその場で糸がつけてくれることが、嬉しくないはずがない。彼はそっと糸の髪に、簪をさしている。

「ねえ、似合う?」

小首を傾げながら問いかける糸の姿は、弥平次には何よりも愛らしいと思えるもの。そんな彼女の体をしっかりと抱きしめた彼は、耳元でそっと囁きかけている。

「よく似合っています。そして、お嬢さまがそんなに喜んでくれるのが、わたしには何よりも嬉しいことです」

その声と同時に、弥平次は糸の唇をふさいでいる。突然のことに驚く糸だが、彼女がそれを拒むはずもない。

遠慮がちに重ねられる唇は、互いの思いを伝えるように、熱っぽく何度も繰り返される。今の二人は互いの思いが通じ合っていることだけに喜びを感じているのだった。


◇◆◇◆◇


若い二人がそうやって、何度も逢引を繰り返している。そのことを清兵衛は何となくだが、感じとっていた。

もっとも、その相手が弥平次だということまで気づいているわけではない。彼は奥の女たちが変にそわそわしている態度から、何かがあるのではないかと思っているのだった。

そんな中、清兵衛は糸の髪に飾られている簪にふと目を止めていた。

それは、いつも糸がつけている花簪とは違うような気がする。いつの間に、あんなものを手に入れたのだろう、と思った清兵衛はその場にいた嘉兵衛に問いかけていた。

「嘉兵衛、ちょっと訊ねるが、糸の簪。あれはお前が糸にやったものかい?」

主人の問いかけに、嘉兵衛は不思議そうな色を浮かべるだけ。そんな彼の姿に、清兵衛は糸が誰かと情を交わしているのだということを確信していた。
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