泡沫(うたかた)の虹
そのことは、彼にとって納得のいく話ではない。なにしろ、清兵衛の中では糸の婿として嘉兵衛を迎え、今よりも店を大きくするつもりがある。このままでは、その思惑も潰れてしまう。そんな危惧を抱いた彼は、持っていた煙管で文机をポンと叩くと、嘉兵衛の顔をじっと見ていた。

「旦那さま、どうかなさいましたか?」

清兵衛の様子がいつもと違う、と思った嘉兵衛はそう口にすることしかできない。その彼に、清兵衛は近くに寄れ、とばかりに手招きすると、その耳に囁きかけていた。

「儂があれほど言っているのに、お前がいつまでも返事をせぬからこのようになる」

「何のことでしょうか」

清兵衛の言おうとしていることはわかっているのに、嘉兵衛はわざと分からないような顔をして、清兵衛を焦らす。嘉兵衛のそんな思惑に乗せられたように、清兵衛はあることを口にしていた。

「糸はお前にやるといっているだろう。儂が許す。今夜にでも、糸の部屋にいけばいい。わかったな」

清兵衛の言葉に、嘉兵衛はしてやったり、とほくそ笑むが、それを顔にだすことはしない。頭の固い番頭という雰囲気を崩さぬように、彼は清兵衛の言葉に反論する。

「しかし、そのようにおっしゃられましても……」

嘉兵衛のその声に、清兵衛は苛々したようにまた煙管をポンと叩く。そして、彼に対してきつい声を投げかけていた。

「糸をどこの馬の骨ともわからぬ奴にやるわけにはいかん。その前に、お前にやろうと言っているんだ。そのことが不満なのか?」

「い、いえ……そのようなことは……」

清兵衛の言葉に恐縮したふりをして、嘉兵衛はそう呟いている。もっとも、彼に見えぬように下げられた顔に浮かんでいる表情は、満足しきったもの。

これで、堂々と糸を自分のものにすることができる。

そう思い、心の中では喝采をあげている嘉兵衛だが、そのような様子をみせるようなへまはしない。そんな彼に、清兵衛は苛々したような調子で言葉を投げつける。

「わかったな。今夜にでも糸を抱けばいい。あれにはまだ言っていないが、儂はお前しか糸の婿は考えていないからな。少し順番が狂うが、それは仕方がない」

「旦那さま、それは少々、無茶なのでは……」

心の中では喜びの声をあげているにも関わらず、口ではそれを否定する。嘉兵衛のそんな表面の姿だけに惑わされた清兵衛は、呆れたような調子で言葉を続けるだけ。

「構わんといっている。それとも、お前は糸のことを嫌っているのか? そのせいで返事を渋っているというのなら、これ以上の無理は言わぬが」

「ま、まさか、そのようなこと……ただ、あたしはお嬢さんからみれば、年寄りなのだと思われているのではと……」

そんな、しどろもどろの様子を見せる嘉兵衛に、清兵衛はクックとおかしそうに喉を鳴らすだけ。そのまま、彼は立ちあがると、嘉兵衛の肩を軽く叩いていた。

「お前にそんな可愛らしいところがあるとは思わなかったよ。とにかく、さっさと用事を片づけて、糸の相手をしてやってくれ」
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