泡沫(うたかた)の虹
そう言うと、清兵衛は嘉兵衛の返事を待たずに、そのまま奥へと姿を消す。その彼の姿を見送った嘉兵衛の顔には、それまでの遠慮をしたものとは違う、満足しきった笑みが浮かんでいた。

「やっと、旦那さまもその気になられたか。本当に時間がかかった。だが、これで大手をふってお嬢さんを抱けるというものだ」

誰にも聞こえないように、こっそりと呟かれる言葉。そこからは、彼の欲望が如実に感じられる。今の彼は、夜に待っている楽しみで頬が緩むのを抑えることができなくなっていた。



◇◆◇◆◇



父親である清兵衛と嘉兵衛の間で交わされた話のことなど、糸が知るはずもない。彼女はそろそろ床につこうと、部屋の行燈(あんどん)の明かりと落とそうとしていた。

その明りが、彼女が吹き消す前にフッと消える。

どうして、そんなことになったのかと首を傾げる糸。その彼女を、背後から抱きしめてくる腕があった。

「誰なの?」

急に明かりが消えたことで、目はまだ暗闇に慣れていない。そして、相手の顔を確かめたくとも、背後から抱きしめてくる腕の力は強く、糸の力では振りほどけない。

それでも、なんとか自由になろうともがく彼女だが、首筋に感じた荒い息に、背筋がゾクリとなっていた。

「誰なの? 放して!」

彼女のそんな声に、相手の腕が緩む気配もない。それどころか、身八つ口から彼女の中に相手の手が入ってくる。

「嫌! やめて!」

相手が誰か分からないことに、糸は恐怖しか覚えない。そして、その手が彼女の着物の中に入ってきたことで、その思いはますます強くなる。

なんとかこの手から逃れたい。そう思った糸は必死になって暴れまわる。その彼女の耳元に囁きかける声があった。

「そんなに暴れなくてもいいではありませんか。あたしは、お嬢さんのことを前から好いていたんですよ」

その声はよもやと思う相手。そのため、糸は言葉を失っている。

「お嬢さん、あたしがこんなことをするなんて、思ってもいなかったんですか?」

囁きかける声の相手が、番頭の嘉兵衛だと気がついた糸は、茫然としたようになっている。その彼女の体をますます強く抱きしめた嘉兵衛は、彼女の首筋に唇を這わせる。

「そうやって、大人しくしていればいいんですよ。悪いようにはしないんですから」

そう言うなり、嘉兵衛は糸の首筋をきつく吸い上げる。そこは、一気に赤い花を咲かせ、糸は頭の芯に何か甘い疼きを感じている。

「いや……放して!」

この疼きに飲み込まれてしまいたくない。そう思った糸は、先ほどよりも激しく暴れ始める。

なんとかして、嘉兵衛の腕から逃れたい、という思いで糸は必死に身をよじる。その時、彼が「う……」と呻いたかと思うと、彼女を抱きしめる腕が緩んでいた。
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