泡沫(うたかた)の虹
その隙を逃したくない糸は、彼の腕からすり抜けるように抜け出す。そのまま、部屋の壁を背にするようにした彼女は、肩で息をしながら自分を抱きしめていた相手の姿をじっと見つめていた。

それまで、穏やかな番頭だとしか思っていなかった嘉兵衛が、男だということを思い知らされたのだろう。彼女の顔は蒼白になり、体も小刻みに震えている。

しかし、当の嘉兵衛はどういうわけか、うずくまったまま動こうとはしない。どうしたのだろうかと思った糸は、そろそろと嘉兵衛の側に近寄っていた。

その糸の腕をがっちりと握った嘉兵衛が、彼女を抱きしめている。そのまま、乱暴に彼女の唇を奪った彼は、どこか凄味を感じさせる視線を糸に向けていた。

「まったく、お嬢さんだと思って油断していましたよ。あやうく、使い物にならなくされてしまうところでしたよ。そんなことになったら、お嬢さんだって困るんじゃないんですか?」

嘉兵衛の言葉の意味が、糸にはまるでわからない。それでも、嫌な予感しか浮かばないのかなんとかして逃れようと身をよじる。

しかし、今度こそ糸を逃がすまいと思っている嘉兵衛の腕の力は緩む気配がない。息もできないくらいにきつく抱きしめられていることに、糸は小さな悲鳴を上げることしかできなかった。



◇◆◇◆◇



「どうしよう……旦那様に叱られてしまう……」

糸が嘉兵衛に抱きすくめられ、なんとかして逃げようともがいているのと同じ時。下女たちの部屋ではそんな困ったような声が響いていた。

「どうしたのよ。何か、困ったことでもあったの?」

「うん……今夜は、あたしが戸締りの当番だったの。それなのに、ついうとうとしちゃって……」

その声に、声をかけた下女仲間は呆れたような顔をしている。たしかに、彼女がうとうとしているのを目にしていたのは間違いない。しかし、店の戸締りというなによりも大事な仕事を忘れているとは思ってもいなかったのだ。

毎日の仕事の多さに、うとうととしてしまうのは仕方がないことかもしれない。そして、今にも泣き出しそうな顔をしている朋輩を見ると、慰める言葉しか彼女の口からは出てこない。

「泣いてる時間はないわよ。遅くなったけれども、戸締りの確認をしてこなくちゃ。わたしも一緒に行ってあげる。だから、そんなに泣くんじゃないの」

手燭(てしょく)に手早く明かりをつけた下女の一人は、そう言うと相手を促す。それに頷いた彼女は、鼻をぐすぐすと鳴らしながら、戸締りの確認を始めていた。

「おかしなところはなかったわね」

「うん。一緒に回ってくれてありがとう」

店の戸締りは無事に終わることができた。特におかしなこともなく、時間が少しばかり遅かったというだけ。戸締りを見て回った二人はそう思いながら、自分たちの部屋へと戻ろうとしている。

その時、一人が不思議そうな表情を浮かべていた。

「どうかしたの?」

相手の異変に気がついたもう一人が首を傾げる。それに対して、問いかけられた方も小首を傾げながらこたえていた。

「ねえ、あっちの方から変な音がしない?」
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