泡沫(うたかた)の虹
そう言いながら、手燭の向けられる先にあるのは、糸の部屋。戸締りが遅くなったせいで、彼女の身に何かがあったのではないか。そう思った二人は、慌ててそちらへと駆けていく。

そして、糸の部屋に近づくにつれ、おかしな気配はますます強くなる。ひょっとして押し込みでも入ったのか。そんな恐怖が体を支配するが、糸の無事を確かめなければならない。そう思った二人は、震えながらも声をかけていた。

「お嬢さま、何かありましたか?」

その声に、何かが舌打ちをしたような音が響くと襖が開き、誰かが逃げ去っていく。上手く、顔を隠しているため、彼女たちにはそれが誰かわからない。その相手を追いかけようとした時、糸の声が彼女たちの耳に届いていた。

「誰かいるの? ちょっと入ってきて」

その声が、どこか震えているように思える。そう感じた二人は、お互いに顔を見合わせるとおずおずと糸の部屋に入っていた。そこは、まるで嵐にでもあったように物が散乱し、糸も青ざめた顔で震えている。そのことに、二人はすっかり肝を潰していた。

「お嬢さま、どうしたのですか?」

下女のその声に、糸は返事をすることなく、行燈に火をいれるようにと告げている。その様子をいぶかしく思っても、糸の言葉に従うしかない。やがて、行燈の灯が部屋を照らすと、糸はようやく安心したような表情を顔に浮かべる。

「お嬢さま、先ほどの相手は誰だったのですか?」

その声に、糸の体がビクンと跳ね上がる。彼女にすれば、先ほどのことは忘れたいこと。そのことに触れられたため、糸はきっと下女を睨むと、キツイ口調で言葉を投げつけていた。

「お前たちには関係ないわ。もう、休むからお下がり」

その口調はいつもの彼女とはまるで違う。そのことに下女たちは何かを感じている。そして、部屋の中の状態もその思いを裏づけている。しかし、糸は何も言うつもりがないらしい。

下女たちは互いに顔を見合わせると、仕方がない、という表情を浮かべ、その場から下がっている。それを見送った糸は、ちろちろ揺れる行燈の灯を見ながら、何かを考えていた。

「弥平次……」

その口から漏れるのは、彼女が誰よりも恋しいと思っている相手。しかし、先ほどのことがある以上、彼への思いが実ることがないのだと、糸は不安に思ってしまう。

父親の思惑を知らされていない彼女でも、番頭の嘉兵衛が勝手にあのようなことをするとは思ってもいない。恐らく、父である清兵衛の息がかかっているに違いないと彼女は感じている。

「弥平次、どうすればいい?」

そっと、そう呟いた糸は、部屋の外を確かめるように見渡すと、ある場所へと向かっていた。

コン、コン――。

遠慮がちに叩かれる部屋の襖が開くと、すっかり驚いた顔の弥平次がそこには立っていた。

「お嬢さま……このような時間に、どうして……」

その彼に糸はすがりつきながら、訴えかける。

「お願い。このまま、私を連れて逃げて。このままだと、他の男と夫婦にさせられる」

そう言いながら泣く糸を、弥平次は抱きしめるしかできなかった。
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