泡沫(うたかた)の虹
その次の日の朝、井筒屋の奥はちょっとした騒ぎになっていた。

「夜、お嬢さまはちゃんといらしたのね?」

女中頭の女の声が鋭くかけられる。それに対して、夕べの戸締りを見回った下女二人は、こくこくと頷くことしかできなかった。

「ねえ、あのことは言わなくてもいいわよね」

「うん。だって、あの時はちゃんといらしたんだし……」

夕べ、糸の部屋に誰かが忍んできていたことを話した方がいいかと、二人はぼそぼそと喋っている。もっとも、このことを口にするのは、戸締りの時間が遅かったと白状するようなもの。

それをしたくない二人は、糸が部屋にいたことは間違いないのだからと、口をつぐんでいることにしていた。そんな二人の様子に女中頭はため息をつくことしかできない。

「あなた方、本当に何も知らないの?」

下女たちの様子から、何かを知っているのではないかと思った女中頭の声は、不審感を丸出しにしたもの。しかし、彼女たちも遅い時間の戸締りを叱られるのはわかっている。女中頭の叱責に負けないようにと、互いにくっつきながら応えていた。

この調子では、彼女たちから返事はもらえない。そう思った女中頭はわざとため息をつくと、言葉を紡いでいた。

「わかったわ。とにかく、いつもの仕事に戻りなさい。そのかわり、何か思いだしたことがあれば、すぐに教えなさい」

その声に二人は大きく頷いている。今のところ、それを信用するしかないと、女中頭は疲れたような表情を浮かべていた。

しかし、このことを黙っておくわけにはいかない。かどわかされたのか、自分から消えたのか。どちらにしても、主人である清兵衛には伝えておかねばならない。

だが、このことを知った時の清兵衛の反応が怖い。そう思った彼女だが、どこか覚悟を決めたような色で、清兵衛の元へと向かっていた。

「今、何と言った?」

その女中頭の報告を耳にした清兵衛はポカンとした顔でそういうことしかできない。彼にしても、糸が自分から姿を消したとは考えられない。

それならば、神隠しかかどわかしだろう。しかし、店の戸締りはきちんと行われている。そんな中から、糸を連れ出すことができるというのか。そんな思いが、清兵衛の胸にはある。

だが、糸がいないのが事実なのは間違いない。彼はなんとかして、糸を見つけなければならないと焦っていた。

「すぐに人を出して糸を捜せ」

その声に女中頭は頷くと、気になったことを問いかける。

「旦那さま、番屋には知らせましょうか」

「うむ……念のために知らせておいた方がいいか……」

まだ、かどわかされたと決まったわけではない。そのため、番屋に連絡して大袈裟にするのもいけないか。そんな思いが清兵衛の中にはある。その時、バタバタという足音と一緒に、若い手代が慌てたような顔で店の表に走ってきた。
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