泡沫(うたかた)の虹
「旦那さま、弥平次がおりません」

その声に、清兵衛の顔が一気に強張る。そんな彼の視界の中に、番頭の嘉兵衛の姿が入ってくる。その姿を認めた清兵衛は手代に弥平次を捜せ、と告げると嘉兵衛の側に近寄っていた。

「嘉兵衛、糸がおらぬが、どこに行ったのか知らぬか?」

「お嬢さんが? しかし、夕べはたしかに……」

清兵衛の言葉に、嘉兵衛はうろたえることしかできない。夕べ、糸は間違いなく部屋にいたのだ。そのことは、彼女を手籠めにしようとしていた彼には間違いないと言い切れる。

しかし、それが下女の声で叶うことなく、また糸の反撃で股間を強打された。そんな心身ともに痛手を受けるという経験をした嘉兵衛は、清兵衛の問いかけに明確は返事をすることができない。

「嘉兵衛、糸を抱いたのではないのか?」

「そ、それは……」

嘉兵衛は、清兵衛の問いかけにしどろもどろの状態で応えることしかできない。そんな彼の様子に、清兵衛は何かを感じたのか、その眉を不機嫌そうに寄せている。

「どうしたのだ。なぜ、返事をしない」

「そ、それは……」

清兵衛の問いかけには応えないといけない。しかし、今の嘉兵衛にはそれができない。

彼は、清兵衛の痛いような視線を感じながらも、体を小さくするだけ。そんな彼を見た清兵衛はため息をつくしかできない。そんな清兵衛の様子を感じた嘉兵衛は、胸の奥底でギリギリと怒りを噛みしめていた。


◇◆◇◆◇


「旦那さま、どうしてそんなに不機嫌なのですか」

久しぶりにやってきた嘉兵衛の様子がただならぬものだと感じた胡蝶は、彼にしなだれかかりながらそう問いかける。しかし、その声にも嘉兵衛は応えることがない。そんな彼に胡蝶は心配そうな視線を向けていた。

「本当に、何かあったのですか? あちきに話すことで、少しは気持ちも紛れるでしょうに」

その声にも、嘉兵衛はこたえようとしない。そんな彼を見た胡蝶は、大きく息を吐いていた。

「本当に、どうなさったんです。先日はご機嫌もよくて、あちきは本当に嬉しかったですのに」

そう呟くと、胡蝶は嘉兵衛の胸に顔をうずめる。その彼女の髪の匂いを嗅ぎながら、嘉兵衛はため息をついていた。その彼の様子が気になる胡蝶は、問いかける言葉しか出すことができない。

「あちきでは、旦那さまのお役にたてませんか? あちきは旦那さまのためでしたら、何でもしようと思っておりますのに」

そう言うと、胡蝶は頭をますます強く嘉兵衛の胸に摺り寄せ、白い腕を彼の背中に回している。そんな彼女の蠱惑的な姿態に、嘉兵衛はようやく言葉を発していた。

「このままでは、お前との約束を守れそうもないと思ってな」

その言葉に、胡蝶は体をビクンとさせる。彼の言葉は、彼女には思ってもいなかったことだからだ。胡蝶は嘉兵衛の言葉を否定するようにその胸にしっかりとすがりついている。

「旦那さま、そんな寂しいことをおっしゃらないでくださいな。あちきは、旦那さまのお言葉だけが頼りでしたのに」
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