泡沫(うたかた)の虹
「おや、彦太郎。何を突っ立っているんだい? おとっつぁんも毎日、精が出られて本当によろしいことで」

そう言いながら、鬢(びん)を軽く撫でつける手の袂をもう片方で押さえつつ入ってきた若い男がいる。その整った顔立ちは、あたりの雰囲気を一気に華やいだものにしていた。

切れ長の一重の目、軽く持ち上げられた口角。すっと流し眼をするならば、あたりの女たちが雪崩をうって転がるだろう。しかし、その場にいる徳次郎や彦太郎に効き目はない。むしろ、疳の虫がきつくなったような表情になっている。

「お前にそう言われると、逆に気分が悪くなるわい」

「おとっつぁん。そんなことを言われる覚えがわたしにはないんですが」

「自分の胸に手を当てろ。この道楽息子が」

徳次郎が吐き捨てるようにいう言葉に、若い男は心外だというような色を浮かべるだけ。その彼に、彦太郎が呆れたような顔で声をかけていた。

「それはそうと、弥平次さま。今日はどちらの湯屋においでになっていたのですか?」

その言葉に、弥平次と呼ばれた相手は軽く鼻を鳴らす。その顔には、こんな日の高い時刻から湯屋になど行くはずがないだろう、とかいてある。もっとも、そんな彼の表情もこの二人にはまるで効果がない。

「まったく、少しは扇屋の跡取りだという自覚をもたんか。あちこちの湯屋で女相手に浮名を流すばかりでは、安心して身代を任せられんわい」

「おとっつぁん、それは言いすぎですよ」

徳次郎の声に、弥平次は思わず口を尖らせている。この扇屋の跡取り息子である弥平次、水も滴る優男。そこへもってきて、扇屋というのが巷でも有名な大店ときている。そうなれば、そこらの女どもがほっておくわけがない。そして、金も時間も十分にある彼が遊びに夢中になるのは当然のことともいえるだろう。

いつの間にか、『扇屋の弥平次』といえば、色街で知らぬ者がないくらいの有名人になっていた。しかし、そんなことを父親である扇屋徳次郎が快く思うはずもない。彼はこの日、一つの決心をして息子である弥平次と向き合うことにしていた。

「弥平次、実は話がある」

「なんでしょうか。おとっつぁん」

父親の気持ちが分からないのか、弥平次はどこか軽い調子で返事をする。その声に徳次郎は大きくため息をつきながら、あることを告げていた。

「毎日、毎日、お前のことが噂になっていると思うだけで身が細る。これは、店の体面にも瑕がつくことだ。だから、儂はこれ以上お前の浮名を聞きたいとは思っておらん。そして、お前も世間というものを知る必要があるだろう」

「おとっつぁん、何を言うんですか?」

徳次郎の言いたいことが弥平次にはわからない。小首を傾げながら問いかける彼に、徳次郎は冷たく言葉を吐き捨てる。

「知り合いの店で人を探しているところがある。荷物をまとめて、明日にはそこへ行け。二度と、この店と儂の前に姿を見せるな」
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