泡沫(うたかた)の虹
それだけ言うと、徳次郎はさっさとその場を立ち、店の奥へと姿を消す。そんな父親の後姿を茫然と見送ることしか弥平次にはできなかった。

「お、おとっつぁん……」

徳次郎の言葉を信じることができずに突っ立っている弥平次の肩を彦太郎はポンポンと叩くだけ。もっとも、彼にしても主人の決定がもっともな部分もあると思っているため、慰める言葉がでるはずもない。

これは、父親と番頭から見捨てられたということに他ならない。そのことを実感した弥平次は、これからのことを考えただけで目の前が真っ暗になっていく思いがしていた。


◇◆◇◆◇


「旦那さま、口入れ屋から来た者がおりますが、いかがいたしましょう」

井筒屋という店の名を染め抜いた暖簾(のれん)が風に揺れている。その暖簾の陰から聞こえてきた問いかけの声は柔らかく耳に心地よい。それに対して、大店の旦那然とした声が応えていた。

「お前に任せるよ、嘉兵衛(かへい)。お前の眼鏡に叶った者なら間違いはないだろう。儂が横から口を出すことではないと思っているよ」

その声に、嘉兵衛と呼ばれた相手は、恐縮したように頭を下げる。この井筒屋の番頭である彼は、主人である清兵衛(せいべい)の期待に応えることこそが役目だ、と思っている。である以上、店のことを一番に考えるのは当然だ、というような表情を彼は浮かべていた。

「旦那さまがそうおっしゃるのでしたら、あたしの方で手配しておきます。しかし、この頃は口入れ屋もなかなかこれという者をまわしてこないのですが」

「そのように愚痴をこぼすな。要は、お前の目が厳しすぎるのではないのか? もう少し、柔らかくするのもいいとは思うがな」

そう言うと、清兵衛は持っていた煙管に煙草を詰め直す。煙管をのんびりとくゆらせた彼は、何かを思い出したように口を開いていた。

「それはそうと、おまえは扇屋を知っていたな」

清兵衛の声に、嘉兵衛はおもむろに頷いている。そんな番頭を見ながら、清兵衛はのんびりとした口調で言葉を続けていた。

「実はその扇屋。息子の弥平次が女遊びをしすぎるのに堪忍袋の緒を切らしてな。儂の店で手代として雇ってくれないかといってきおった。儂にすれば異存はないが、お前に相談せずに決めたのでな。今さらだが、お前の意見も聞かせてくれないか」

そう言われた嘉兵衛は苦笑を洩らすしかできない。今、清兵衛が口にした扇屋とは長い間の付き合い。店を構える土地が互いに離れているためか、いい商売相手ということがいえる。

そこの主人からの言葉なのだ。少々というよりかなりの難がある相手であっても、断れるはずがない。そんな色を顔に浮かべた嘉兵衛は神妙な顔で清兵衛の声に応えていた。

「旦那さまがお決めになられたことを、使用人であるあたしが反対するはずがございません。それでは早速、準備をさせていただきます。しかし、弥平次さんといえば若旦那。そんな方を手代として扱ってもよろしいのですか?」

嘉兵衛の疑問はもっともなことだろう。それに対して、清兵衛は気にすることはない、というように煙管をポンと叩いている。
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