泡沫(うたかた)の虹
そう囁いた胡蝶は、何がこれほどまでに嘉兵衛の心を沈ませているのかと、必死になって考えている。そんな中、彼女は婢がある人物を見た、という話を思い出していた。

「旦那さま、あちきがお役に立てるかもしれません」

胡蝶のその言葉に、嘉兵衛が弾かれたように彼女の顔をみつめる。その嘉兵衛の顔を両の手で挟んだ胡蝶は、静かな調子で言葉を紡いでいた。

「今日の朝、早くの話です。あちきの世話をしてくれてる婢が、井筒屋のお嬢さんの姿を見たと言っておりました」

その声に、嘉兵衛の表情が一気に明るいものになる。やはり、このことが嘉兵衛の心を蝕んでいたのだ。そう思った胡蝶がその先を続けようと口を開く前に、嘉兵衛が気色ばんだ様子で、彼女に言葉を投げかけていた。

「胡蝶、その話は本当か?」

その勢いの凄さに、胡蝶は頷くことしかできない。その胡蝶の肩を揺さぶるようにして、嘉兵衛は言葉を続けていた。

「胡蝶、その婢に会わせろ。お前の言葉を疑っているわけではない。だが、直接、話がききたい」

ここまで激しい様子の彼は、床の中でも滅多にないだろう。そのことに気がついた胡蝶は、どこか寂しいものを感じながらも、彼の言葉に従うしかないことを悟っていた。

「わかりやした。旦那さまがお聞きになりたいというのなら、すぐにこちらに呼び寄せます」

そう言った胡蝶は、大きく手を叩くと婢を呼び寄せている。廓でも中の上に位置する彼女の呼びかけに飛んできた婢は、その場に嘉兵衛もいることにすっかり驚いていた。そんな彼女に、胡蝶は優しく声をかけている。

「そんなにかしこまらなくてもいいんだよ。お前が今日、あちきに話してくれたことをここにいらっしゃる旦那さまにも、聞かせてあげとくれ」

「は、はい……」

胡蝶の言葉に婢は体を震わせることしかできない。まさか、彼女が旦那である嘉兵衛といるところに呼ばれるとは、思ってもいなかったのだ。

それでも、いつまでもそれではいけないと思った彼女は、下を向いたまま震える声で応えている。

「今朝、まだ夜が明ける少し前です。ここの前の道を井筒屋のお嬢さんが男の人と一緒に走っていくのを見たんです」

「それは間違いないのか」

嘉兵衛の声が、荒々しい語気を伴って婢にぶつけられる。その勢いに彼女はますます小さくなりながらも、ハッキリとした声で自分がみたことを告げている。

「はい。井筒屋のお嬢さんといえば、あたいでも顔を存じております。その方が夜明けを告げる鶏が鳴く前に男の人と一緒にいたんです。もう、肝を潰して、胡蝶姐さんにお知らせしたんです」

その声に嘉兵衛は何かを考え込んだような表情になっている。そんな顔のまま、彼は婢にもう一度、問いかけていた。

「では、どちらに行ったのかまでは覚えていないか? それと、一緒にいた男はどんな奴だった」

嘉兵衛の声に、婢は自分の記憶を掘り起こすような表情を浮かべる。そして、今度は顔をあげると嘉兵衛の目を見ながら応えていた。
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