泡沫(うたかた)の虹
「一緒にいたのは、若い男の人でした。顔はよく見えませんでしたが、すらりとした姿のいい人で、その人と一緒にあちらの方に向かっていました」
そう言いながら婢が指し示す方向。そこにあるのが何か思い当った嘉兵衛の顔は、ようやく安堵の色が浮かびあがっていた。そんな彼に、胡蝶はしなだれるようにもたれかかる。
「旦那さま、少しはお役に立ちましたかしら」
嘉兵衛の表情を見ていると、それは間違いない。それでも、胡蝶は彼の口からそれを聞きたいのだろう。確かめるように言葉を紡ぐ。
その彼女の顎をグッと持ち上げた嘉兵衛は、そのまま胡蝶の口を吸っている。それが、今の胡蝶の言葉に満足した嘉兵衛からの褒美だとわかっている彼女は彼の首に腕を回すと艶めかしくそれに応える。
「旦那さま、あちきのような女でも、お役に立つことがありますでしょう?」
口を吸われることで感じる甘い刺激の中で、胡蝶はそう囁いている。その彼女の体をしっかりと抱きしめた嘉兵衛は、満足したような声を出していた。
「ああ、お前には本当に感謝しているよ。さ、今夜はもう帰るが、構わないだろう。あたしはちょいと用事ができたからね」
その声に胡蝶は名残惜しげな色を見せるが、引きとめようとはしない。そのようなことをして、彼に鬱陶しい女、と思われることの方が彼女には辛抱できないのだ。
胡蝶からの話で、糸の逃げた先がわかった嘉兵衛は、そそくさと店に戻ることを決めている。ぐずぐずしていると、糸を失ってしまうと思っているかのように、その行動は素早く、残した胡蝶のことを気遣う余裕など、今の嘉兵衛にはないようだった。
◇◆◇◆◇
「旦那さま、お嬢さんの居場所がわかりました」
いつもであれば、固く閉じられているはずの井筒屋の扉。それがまだ開かれたままであり、蝋燭の明かりがちらちらと揺れている。
若い手代が何人も、店の中と外を出入りする。その表情は一様に硬く、何事かが起こったというのは簡単にわかるだろう。
そんな中、慌てた様子で店の中に飛び込んできた嘉兵衛の姿に、清兵衛は鋭い視線を向けていた。しかし、嘉兵衛が口にした言葉が一気に清兵衛の表情を変える。清兵衛は嘉兵衛の胸倉を掴むようにして、その言葉を確かめていた。
「本当か。本当に、糸の居場所がわかったのか」
どこか震えるような声に、清兵衛が娘のことを心配しているのが手に取るようにわかる。そして、その彼に嘉兵衛は胡蝶からきいた事実を告げていた。
「知り合いの娘が明け方、お嬢さんが男と歩いているのを見たと。そして、その向かった先がお店の寮のある方向でした。これだけ探しても見つからないのです。おそらくはそこかと」
「しかし、嘉兵衛。寮には留守番の者がおる。糸が行っているならば、必ず報告があるはずだ」
その声に、嘉兵衛も頷いている。だが、どういうわけか彼は糸が間違いなく井筒屋の寮に隠れている、という確信じみた思いを抱いていた。その時、一人の手代が彼の元に近寄ってくる。
「どうしたんだい」
そう言いながら婢が指し示す方向。そこにあるのが何か思い当った嘉兵衛の顔は、ようやく安堵の色が浮かびあがっていた。そんな彼に、胡蝶はしなだれるようにもたれかかる。
「旦那さま、少しはお役に立ちましたかしら」
嘉兵衛の表情を見ていると、それは間違いない。それでも、胡蝶は彼の口からそれを聞きたいのだろう。確かめるように言葉を紡ぐ。
その彼女の顎をグッと持ち上げた嘉兵衛は、そのまま胡蝶の口を吸っている。それが、今の胡蝶の言葉に満足した嘉兵衛からの褒美だとわかっている彼女は彼の首に腕を回すと艶めかしくそれに応える。
「旦那さま、あちきのような女でも、お役に立つことがありますでしょう?」
口を吸われることで感じる甘い刺激の中で、胡蝶はそう囁いている。その彼女の体をしっかりと抱きしめた嘉兵衛は、満足したような声を出していた。
「ああ、お前には本当に感謝しているよ。さ、今夜はもう帰るが、構わないだろう。あたしはちょいと用事ができたからね」
その声に胡蝶は名残惜しげな色を見せるが、引きとめようとはしない。そのようなことをして、彼に鬱陶しい女、と思われることの方が彼女には辛抱できないのだ。
胡蝶からの話で、糸の逃げた先がわかった嘉兵衛は、そそくさと店に戻ることを決めている。ぐずぐずしていると、糸を失ってしまうと思っているかのように、その行動は素早く、残した胡蝶のことを気遣う余裕など、今の嘉兵衛にはないようだった。
◇◆◇◆◇
「旦那さま、お嬢さんの居場所がわかりました」
いつもであれば、固く閉じられているはずの井筒屋の扉。それがまだ開かれたままであり、蝋燭の明かりがちらちらと揺れている。
若い手代が何人も、店の中と外を出入りする。その表情は一様に硬く、何事かが起こったというのは簡単にわかるだろう。
そんな中、慌てた様子で店の中に飛び込んできた嘉兵衛の姿に、清兵衛は鋭い視線を向けていた。しかし、嘉兵衛が口にした言葉が一気に清兵衛の表情を変える。清兵衛は嘉兵衛の胸倉を掴むようにして、その言葉を確かめていた。
「本当か。本当に、糸の居場所がわかったのか」
どこか震えるような声に、清兵衛が娘のことを心配しているのが手に取るようにわかる。そして、その彼に嘉兵衛は胡蝶からきいた事実を告げていた。
「知り合いの娘が明け方、お嬢さんが男と歩いているのを見たと。そして、その向かった先がお店の寮のある方向でした。これだけ探しても見つからないのです。おそらくはそこかと」
「しかし、嘉兵衛。寮には留守番の者がおる。糸が行っているならば、必ず報告があるはずだ」
その声に、嘉兵衛も頷いている。だが、どういうわけか彼は糸が間違いなく井筒屋の寮に隠れている、という確信じみた思いを抱いていた。その時、一人の手代が彼の元に近寄ってくる。
「どうしたんだい」