泡沫(うたかた)の虹
「扇屋がそうしてくれと言っているのだ。心配することはない。それよりも、儂としてはお前から別の話の返事がいつもらえるのかと思っているのだがな」

思わせぶりな清兵衛の声に、嘉兵衛は顔色一つ変えようとはしない。彼は何事もない様子で、清兵衛の顔をみつめていた。

「旦那さまがおっしゃっておられることはわかっております。しかし、あたしなどでは畏れ多いというものです」

「どうしてだ。儂にすれば、お前と糸が一緒になって店を盛りたててくれる。これが今、一番の望みでもあるのだぞ。それとも、お前は糸では不足だと言いたいのか?」

「滅相もございません。その逆でございます。あたしのような年寄りをお嬢さんが相手になさるとは思えませんので」

そう言うと、嘉兵衛は清兵衛の前から下がろうとする。しかし、清兵衛はそうさせまいと彼の袖をグイッとつかむと自分の方へと引き寄せている。

「まったく……そういうところが、お前のいいところでもあるのだろうがな。しかし、お前は年寄りというほどではないだろう。たしかに、糸からみればそうかもしれん。だが、あいつもこの店の跡取りだ。半端な男ではダメなこともわかっているはずだ。その点、お前は仕事も熱心だし、店のこともよく知っている。それに、糸のことを少しは好いておるんだろう?」

「そ、それこそ、滅相もないことです。あたしのような者がお嬢さんに懸想(けそう)するなど、考えるだけで罰が当たるというものです。仕事が残ってますので、あたしはこのあたりで失礼いたします」

そう言うと、嘉兵衛は清兵衛の手を振りほどくようにして、その場を離れている。そんな彼の後姿に、清兵衛は「お固いヤツだ」というようにため息をつくが、嘉兵衛はそんな主人の顔を物陰からにんまりとした顔で盗み見ている。

彼にとって、この店の跡取り娘である糸は喉から手が出るほどに欲しい相手。先日、主人である清兵衛から『糸の婿に』という話を持ちかけられた時、心の中では喝采をあげたのだ。

しかし、この場はそのような顔をせず、主人を焦らした方が得策だと彼は考えている。このような話に簡単に乗ってしまえば、そこまでの相手だと足下を見られると思っているのだ。

せっかく、井筒屋という大店の婿に入れるのだ。ここはできるだけ自分を高く売った方がいいに決まっている。そして、できることならば、『婿に入らせてください』と自分が頭を下げるのではなく『婿に来てくれ』と頭を下げさせたいという欲望もある。

そうするには、どうしたらいいか彼はよく分かっている。お店の娘である糸を、自分に惚れ込ませればいいのだ。今は『婿に入れ』と言っている清兵衛も、娘が自分にぞっこんになれば、『入ってきてくれ』と言うに決まっている。

そして、彼には糸を骨抜きにしてしまう自信がある。たしかに、年は糸よりもはるかに上。しかし、物腰の柔らかく穏やかな性格と若い頃はかなりの好男子だったと思わせる整った容姿。年のわりには腹回りの肉は少なく、まだまだ姿がいいと人には言われている。

自分は間違いなく、糸を落とすことができる。まだおぼこ娘である彼女を自分の好きにすることができる日も近い。そう考えている嘉兵衛の顔は、誰もみていない陰ではすっかり緩んでしまっているのだった。

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