泡沫(うたかた)の虹

◇◆◇◆◇


「お嬢さま、早く帰らないと雨になりそうです」

「お菊、そんなにせかさないで。まだ、大丈夫じゃないの」

コロコロとコッポリの音をさせ、通りを歩いているのは人目を引く美少女。見事な染めの友禅の長い袂に、桃割れの髪を飾る花簪が揺れている。その白いうりざね顔と赤いおちょぼ口は誰がみても魅力的だと思うのだろう。彼女の声が聞こえた途端、人々の視線が一斉にそちらに向けられる。

しかし、当の本人はそんなことには気が付いていない。彼女の前を小走りでいく女の後を小股でちょこちょことついていっている。豪華な帯が華やかに背を彩り、袂が風にふわりと揺れる。

この小町娘は井筒屋の娘である糸。間もなく16になろうとする彼女は、お茶の師匠の家から店へと帰る途中だった。そして、大店(おおだな)の娘である彼女が外出する機会などほとんどない。彼女はあたりの景色を楽しむように歩いていた。

「お嬢さま、雨にあったらどうするんですか」

糸がすぐ後ろをついてきていないことに、菊の苛立ったような声がする。菊にとって、糸はお店(おたな)のお嬢様なのだから、このような口のきき方が許されるはずがない。だが、糸がおっとりとした性格のためか、そのことを気にもしていない。彼女にとって、菊は下女ではなく気のおけない女友だち、という感覚なのだった。

「お菊、そんなに早く歩けないわ。私の着物はお前のものほど動きやすくないんだから」

その声に、菊は焦ったような表情を浮かべている。たしかに、糸の着ている着物はため息をつくくらいに豪華な物。そして、せかしすぎたために彼女が転んだりするのもいけない、と思ったのだろう。菊はちょこちょこと糸の元へと駆け寄っている。

「お嬢さま、無茶を申してすみませんでした。ちょっとでも早く、お店に帰らないといけないと思ったので……」

「お菊の気持ちは分かっているわ。お前はこの天気だから、私が濡れてはいけないと思ってくれたのよね。でも、大丈夫よ。まだ、雨が落ちてくる気配はないんだもの」

そう言って空を見上げる糸だが、一緒にいる菊は、その空が今にも泣き出しそうだと思っている。今のままだと、二人とも濡れてしまうのではないか、と思った彼女は糸の袂を軽く引っ張る。

「お嬢様のおっしゃりたいことはわかります。でも、早く戻りませんと。遅くなりますと、旦那さまが心配なさいますから」

菊のその言葉に、糸は大きく頷いている。父親である清兵衛は彼女のことを目に入れても痛くないほど可愛がっている。そのため、少しでも外出先から帰るのが遅れれば、大騒ぎをして店の者に彼女を捜させる。そのことが使用人たちに負担をかけているのではないかと心配している糸は、菊の言葉を素直に聞くべきだと思っていた。

「わかったわ。でも、おとっつぁんもあんなに心配しなくてもいいのにね。おかげで、ゆっくりと外を歩くこともできやしない」

そう呟いた糸が歩き始めようとする。だが、今度は菊が通りの一角をみつめていた。

「お菊、どうかしたの? 早く、帰らないといけないのでしょう?」

「あ……は、はい……」
< 5 / 24 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop