泡沫(うたかた)の虹
糸の問いかけに、菊は放心したような調子で返事をする。それを不思議に思った糸は、彼女が見ている方向に視線を走らせていた。

「あら、どうかなさったのかしら」

菊の視線の先では、若い男が立っている。その見目が錦絵に描かれる役者のようだ、と思った糸の顔が思わず赤らんでいた。

「お嬢さま、どうかなさったんですか?」

糸の顔を覗き込みながら、菊が問いかける。それに対して、糸は相手の頬をつついていた。

「別に……それよりも、あの人、何かを探しているようね。お菊、ちょっと訊ねていらっしゃい」

その声に、菊は肝を潰したような表情になっていた。もっとも、相手が見とれるほどの二枚目のためか、素直に頷いている。そして、相手に近寄って行った菊が、彼と一緒にやってくるのを見た糸は目を丸くしていた。

「お嬢さま。この人、お店を探していたんです」

その声に、糸は首を傾げるだけ。そんな彼女に、菊は急いで説明をしていた。

「この人、旦那さまの知り合いの息子さんで弥平次さんっていうんですって。で、うちの店に修行に来られたとか。ところが、初めてのところなもので、すっかり道に迷われていたんです」

「まあ、それは大変でしたこと。私たちも今から帰るところですの。ご一緒いたしましょうか」

今まで、父親や番頭以外の男と親しく口をきいたことなどない。だというのに、この相手にはなぜか自然にそんな言葉が出る。そのことに、糸は顔を赤くしながらも、相手の返事を待っていた。

しかし、なかなかそれがない。そのことに、糸は余計なことをしたのではないか、とますます顔を赤くしてしまう。そんな時、ようやく相手がゆっくりとした調子で声をかけてきた。

「井筒屋さんのお嬢さんですか。このようなところでお目にかかれるとは、思ってもいませんでした。わたしは、扇屋の息子、弥平次と申します。故あって、そちらでお世話になるようにと父よりいいつかりました。これから、よろしくお願いいたします」

そう言うなり、弥平次と名乗った男は深々と頭を下げる。通りの真ん中でそのようなことをされることは、人目があって気恥かしい。そう感じた糸は、言葉につまってしまっていた。

「あ……こ、こちらこそ」

弥平次と名乗った男の声に、糸はこれ以上ないくらいに顔が火照ってくるのを感じている。その中で、彼女は自分が名前を告げていないことを思い出していた。

「あ、こちらこそ、名前も名乗らずに失礼いたしました。私、井筒屋清兵衛の娘、糸と申します。これは私の下女の菊。それでは、お店の方にご案内いたしますね」

そう言うと、糸は袂を持ち直すとゆっくりと歩き始める。そのすんなりとした後ろ姿は、まるで風になびく百合の花のよう。

その彼女の姿に見とれたようになった弥平次だが、ここでおいていかれては大事になる。そう思ったのか、慌てて彼女の後から井筒屋へと足を向けていた。

「お嬢さま、のんびりしないでくださいよ。雨に濡れたら、お召し物を乾かすのが大変なんですから。弥平次さんも早く、早く。今にも降ってきそうですよ」

二人を急かす菊の声が、通りを微かに流れていく。その声にかぶさるように、雨がポツリ、ポツリと落ち始めていた。
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