ふるさとの抵抗~紅い菊の伝説4~
 団地の一室…。
 三DKのダイニングで守屋香と翔は遅い夕食をとっていた。掃除が行き届いていないのか、部屋の中は物が散乱しており、流しには洗わずに捨て置かれた食器が溢れている。後ろで一つに結んだ香の髪は乱れ、白い物がちらほらと見てとれる。翔の洋服はいつ洗った物なのか首のあたりが黒く染まっている。香は黙々と食材を口に運んでいる。翔はそんな母親にときどき目をやりながら食事をしている。
「ほら、よそ見をしているとまたこぼすよ」
 面倒くさそうな口ぶりで香は言った。
「ごめんなさい…」
 翔は母に親しみの目を向けていたのだが、香にそう言われて元気をなくして目を伏せた。
 ここに父親の姿はなかった。単身赴任で別居生活を始めてから既に二年が過ぎていた。香の変化はその頃から始まっていた。
 それまでの香は翔に対して優しかった。晴れた日などは二人で公園に行って遊んでいる姿がよく見られた。だが、夫である進が単身赴任で出て行ったあとからその様子が変わっていった。
 最初の頃は進も毎週家に帰ってきていた。それが月日が経つにつれて次第に間隔が開くようになり、今では一ヶ月に一度帰ってくればいい方になっていた。香は次第に情緒不安定になり、苛ついているような目をすることが多くなってきた。
 部屋の片付けがうまくいかなくなったのもその頃からだった。そして翔にも辛く当たるようになっていった。
 張りつめた息の中、二人は黙々と食事をこなしていた。会話は殆どない。翔は母と話がしたいらしく時々母の顔を見るが、その度に香の鋭い視線を浴びて目を伏せていた。
 暫くして翔の食がとまった。お腹がふくれたという訳ではなかったのだが、この緊張に何となく耐えかねてきたのだった。まだ残っている食べ物をフォークで突き始めた。
 香はそれを見逃さなかった。手にしていたコップの水を翔の顔にぶちまけた。
 翔の身体が固まる。
「あんたは。食べ物で遊んじゃいけないって何度言ったらわかるの!」
 香りは翔の頬に平手を喰らわせる。
 翔の身体が壁の方に飛ばされる。
 倒れた翔の腹を蹴り飛ばす。
 何度も、何度も、翔の身体をいたぶるように…。
 翔は必死に堪えていた。彼が泣くことを香りは極端に嫌っているからだった。しかし、幼い子供が堪えきれるはずはない。翔はいつの間にか泣き出していた。それを聞いた香は乱れた髪を掻きむしるとベランダから布団たたきを持ち出してきて翔の身体を打ち始めた。
「ごめんなさい。お母さん、ごめんなさい…」
 鳴き声の中、翔は必死に訴えた。
 その声を聞いて香の手が止まった。
 頭を抱え、縮こまって泣いている翔を見て、その目に涙が溢れる。床で知事困っている翔を抱き上げる。
「翔、ごめんね。ごめんね…」
 香は泣きながら素用の頭を撫で、身体をさすった。
 冷ややかな部屋の中、親子の泣き声が漂う。
 翔は香の首に回した手に力を入れる。母が離れて行ってしまわないように必死になって…。
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