ふるさとの抵抗~紅い菊の伝説4~
 森崎龍一は美しが丘第一小学校の校門をくぐり、職員室に向かっていた。下校時間もとうに過ぎ、閑散とした校庭はどこかゴーストタウンを思わせる風情があった。五年前、この小学校ではちょっとした『事件』があった。一匹の野良犬がこの学校に現れたのである。その犬は野良であるにもかかわらず妙に人懐こく躾がしっかりとされていた。その犬はたちまち子供達の心を掴んだ。子供達は給食の残りなどを与え、犬はこの学校に居着いてしまった。
 父兄達は危険だということでこの犬の処分を求めてきたが、当時の校長の判断で予防注射を済ませてこの学校で飼うことにした。
 その犬は『タロ』と名付けられた。
 タウン誌の記者である森崎はこの記事を書いた。殺伐とした世の中で心温まる話だと思ったからだ。
 森崎の読みの通り、この記事は反響を呼んだ。タロに届けて欲しいと餌や寄付金が集まった。森崎はこれを当時の校長に届けた。何回か通っているうちにこの学校の教師達とも親しくなっていった。
 しかし、人間は忘れる動物である。
 タロに対する寄付は次第に少なくなっていき、いつしか完全に途絶えてしまった。森崎の足も次第にこの学校から遠のいてしまった。
 その森崎がこの学校に再び足を向けたのはタロの事件の後日談を書こうと思ったからだった。
 当時の校長は既に引退してしまったようだが、当時を知る教師がいるということで、アポイントメントを取りここを訪れたのだった。
 来客用入り口で靴をスリッパに履き替える。校舎の中央部に向かって暫く歩くと職員室の扉の前に出る。森崎はそれを開けて中に入る。津核のデスクに座っていた教師らしき女性が森崎に声をかけてきたので、彼は来訪の目的とアポイントメントを取った教師の名を告げた。ほどなくその教師が彼の前に現れた。
「あおばインフォメーションの森崎です。岡崎有紀先生ですね?」
 森崎は名刺を取り出しながら確認した。
「はい、でも私はあまり詳しいことは知らないんです。まだ教育実習生の頃でしたから…」
 有紀はそう答えた。
「いいえ、構いませんよ。どんな情報でも」
 森崎は微笑んだ。
「あの、私の席でよろしければ…」
 有紀の申し出を森崎は快く受け取った。
 有紀は使い古されたパイプ椅子を持って自分の席の脇に置き、森崎に勧めた。
 森崎はそれに座ると鞄から小さな電子文具を取り出すと膝の上に開いた。キーボードが左右に展開し、液晶画面が光を得た。
「それで、タロはその後どうなりました?特に反響が収まってからは…」
 森崎はキーボードに両手を添えると早速本題に入った。
 有紀は当時を思い出そうとしているのか、瞳を宙に泳がせている。
「あの後、どうしてもタロを譲って欲しいという人が現れまして、職員と子供達で協議をしてその方に差し上げたんです」
 森崎は有紀の言葉を素早くキーボードに打ち込んでいく。
 森崎もタロがこの学校から居なくなったことは知っていた。だが逃げ出してしまったり、保健所で処理をされたのではないということなので正直安心していた。
「そうですか、それでその人の名前や住所などはお訊きになりましたか?」
「はい、天野恵理子という方です。この街の外れに一人で住んでいらっしゃいます」
 そう言うと有紀は机の引き出しから古い手帳を取り出してエリコの住所を書いた紙を森崎に渡した。
 森崎はそれを受け取ると有紀に礼を言った。
「でも、変なんです」
 メモを渡すと有紀は何かに思い当たったように言いかけた。
「何が変なんです?」
 森崎はその言葉に興味を持った。
「いえ、翌日何人かの子供達がタロに会いたいと言って来たので天野さんを訪ねたのですが、タロに会わせてもらえなかったのです」
「会わせてもらえなかった?」
「ええ、知り合いの方にもらわれていったということで…」
 確かに少し妙だった。タロを引き取りに来たということは自分で飼うということではなかったのだろうか。それが翌日すぐに別の人に渡してしまうとは…。これは何かある、森崎のアンテナがそう告げていた。
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