結婚白書Ⅲ 【風花】


遠野課長と私は 帰りが同じ方向だという理由で一緒のタクシーに乗せられた

タクシーの乗ってまもなく 課長の苦しそうな声がした



「どうしました 車に酔いましたか?」



課長は苦しそうに頷くだけ

早く降りた方が良いよと 運転手の迷惑そうな声に程なく下車した

聞くと 課長の自宅はここからあまり遠くないという

ふらつきながらも 腕を抱え なんとか歩く



「だいぶ気分が良くなったよ 悪かったね」


「いえ あの 玄関までお送りしますから」



”ありがとう” と 課長の安堵の声がした 



住まいはマンションの5階だった

インターホンを押すが返事はなく 仕方なく鍵をかりてドアを開け中に入った 

人の気配がない 家族の方はお留守のようだ

気分の悪い課長を 玄関において帰るのがためらわれた

部屋に入りソファーに座り込んだ課長は 水を飲んでようやく落ち着いた



課長のマンションからは歩いて帰った

徒歩で15分ほどの距離に 私の住む賃貸マンションがある 


歩きながら 同僚の言った言葉を思い出していた


”課長の声は 低くて柔らかくていい声なの”・


声とともに課長の姿も思い出される

 

『土地の慣れない酒に酔ってしまったようだ 桐原さん 本当にありがとう』



課長の声は 心地よく 私の中で何度も響く



男性を抱えて歩いたのは初めてだった

邪な気持ちがなかった分 課長の体の感触は 鮮明に私の手に残った

それから目も……

メガネの奥の 厳しい印象しかなかった目は 

今夜は柔らかく 感謝の眼差しを私に向けていた


どうして こんなにハッキリ思い出せるのだろうか

自宅に戻ってからも 自分でも可笑しいくらい遠野課長のことばかり考えていた


その思いは 明日の和史との約束を忘れそうなほどだった






< 5 / 132 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop