二度目の恋
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「えっ、何処に?」
「神霧村」
「神霧村?」
「知ってる?」
「いえ」
「僕の田舎だよ」
「何か?」
「とにかくつき合って」
「……はい」
 健太郎は茶封筒を抱き抱えて、愁と話していた。この、橘愁という人間がもうすでに分からなくなっていた。愁は健太郎を見てタバコを銜えて笑っていた。


 静かな夜は続いた。涼しげな風は吹く。家は暗く。部屋の隅から隅まで散らかっていた。疎らにゴミは散らばり、空の酒瓶が床に散らばっていた。そこは台所。橘恵子は床にお尻をつけ、壁により掛かって酒瓶を飲み干していた。指は震え、目には涙を浮かべていた。あの日のことを思い出した。それは、橘愁がまだ十二歳の時のこと。倉岡美月の家で起こった出来事。美月が実の父親にレイプされていたこと。亨が殺されたこと。あの日の月は綺麗だった。雲は多かったが、風も吹いていたが、月は光って黄色く染まった稲や原っぱのススキに反射した。あの日に起こったことが、頭から離れない。毎日が苦しんでいた。
 恵子は直也と対峙した。虐待を受けていた美月のために、彼女を守ろうとした愁のために、そして殺された亨のために、何度も殴られた。あの日の月は、恵子にとって冷たかった。奴が、直也が家を出るときの顔が忘れられない。笑いかけたあの顔が─────
 涙を一滴流した。酒の無くなった酒瓶を一滴残らず嘗め回し、床に放り投げた。


 橘愁は公園にいた。大きな公園だ。イチョウの木やもみじが黄色と赤に染まっていた。今日は風がある。その風のせいで落ち葉となった。愁は公園の噴水のベンチに座っていた。ただ一人ベンチに座り、周りは誰も座ってはいなかった。人はいた。辺りは暗く、帰宅する人の群だ。愁は通りすがる人を見て思い出していた。昔のことを─────
 雨樋を上って美月を部屋から連れだした。美月を、彼女を、守るために。ススキの中を走った。美月の手を離さないように。真剣に走ったんだ。奴の顔がいつも、自分の後ろにあった。だけど、美月は奴に捕まって連れて行かれた。愁は動けなかった。守ろうとしたのに、守れなかった。
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