金色の陽と透き通った青空
第23話 失った愛と得た愛
 あれから千晶は毎日のように智弘に会いに、病室にやって来た。
 まるで自分が妻であるかように、千晶は我がもの顔で振るまい、智弘も彼女を受け入れ千晶に身の回りの世話を頼み、杏樹を徹底的に無視した。
 はじめは意地で、疎まれようが嫌がられようが、毎日病院に通い、綺麗に洗ったタオルやパジャマや下着などの洗濯物を届け、ティッシュなどの日用雑貨や好みそうな食べ物などを買って来たり、煙たがられながら体を拭いてあげたり……。甲斐甲斐しく世話をした。

 智弘に軽井沢のガーデンハウスの事、2人で過ごした生活の事、木工家具製作所で働いていた事、総帥の体調が悪くなって、やむを得ず東京に戻り、仕事が片付いて時間が出来ると車を飛ばして尋ねてきてくれた事、そして事故に遭った事……。一つ一つ何度も覚えてないかと尋ねたが、ほんの僅かの小さな事も覚えてないようだった。
 何であの大切な部分の記憶だけ消え去ってしまったのだろう……。他の事は覚えてるのに。智弘が軽井沢に来る以前の2人のメールのやり取りの事も、杏樹に関する淡い記憶はまるで誰かが映像を消去してしまったかのように無くなっていた。

 智弘が元気でいてくれるだけで、それだけでいいと思ったのに……。苦しく、切なく、心が痛くてやり切れない気持ちだった。時々気持ちが卑屈になり、千晶に対して嫉妬の炎が燃え上がり、千晶とイチャつく智弘に対して憎悪のような恨みのような感情も現れて、感情を押し殺さないと悪い人間になってしまいそうになる。
 最初の頃の勇ましい気持ちは何処へやら……。段々小さく萎んでいき、最近は煙たがられてるのにもかかわらず、必死になってしがみついている自分の行いが、果たして正しい物なのかどうかも分からなくなって来た。まるで往生際の悪い女のようだ。恋愛ドラマに出て来る、嫌われているのにもかかわらず、相手の気持ちも無視して執着する女……。
 それは愛ではなくて、自分の気持ちを押し付ける、自分本位の女……。

 ――今の智弘は私の愛した智弘じゃない……。全くといっていい程別の人間だ。
 軽井沢にひょっこりとやって来て、初めて知った、温かい心を持った思いやりのある智弘。時々空気が読めなくて、おちゃめで、目を輝かせて夢を語る、少年みたいな所のある人。そして心の帳を開けて自分の全てを見せてくれ、全面的に私を受け入れてくれて、温かく包み込んでくれた人。

 ――何よりも私を愛し、慈しみ、大切にしてくれた人……。

  ――あの事故で、智弘の心は消えてしまった。私の元から居なくなってしまった。
 どんな事があっても別れない!!例え嫌われてもずっと側にいる!!そう決めたのに、心はグラグラと揺れ動き、手足が痺れてしまうように心は麻痺し始めた。
 もういいかな……。もう終りにしようかな……。ううん。あなたの心が戻って来るのを待つって決めたじゃない!!ダメダメ弱気になっちゃ。
 心は行きつ戻りつ。グルグルと同じ場所を駆け巡るように結論も出ずにループし続けていた。

 ――そんな時に、衝撃的な光景を見てしまった。
 いつものようにベッドの背もたれを起こして、枕を背に当て起き上がっている智弘に、千晶が抱きしめてキスをしていた。
 2人の後ろにある大きな病院の、窓ガラスのレースのカーテン越しから、柔らかく射し込む光が2人を包み込むように眩しく輝き、これからの2人の未来のようにも思えた。そしてあの光景を見て決心したように気持ちが固まった。

 ――別れよう。人格の変わってしまった智弘の求めている人は私じゃない。千晶なのだ。
 智弘を私から解放してあげよう。それが、あなたにあげられる私の最後の愛……。

 その翌日、智弘の病室にやってきたら、千晶の姿は無く、智弘は昼間だと言うのにグッスリと眠っていた。杏樹は『ちょうど良かったわ』と思った。
 眠っている智弘の顔は、自分の知っている私の愛した優しい人と同じだなと思った。起きない様に、そおっと頬にキスをした。めくり上がってる布団を整えてあげて、『さようなら……愛しい人。遠くからあなたの幸せを祈ってるわ』心の中でつぶやいた。
 それからベッドサイドテーブルの上に、今朝、役所から貰って来て慌てて記入捺印した離婚届を置いた。飛ばないように、その上に、昨夜作って可愛くラッピングした焼き菓子の包みを乗せて……。
 そして、未練がましく振り返らないように、病室の扉まで真っ直ぐ歩いて智弘の元から去った。

 病院の駐車場まで走って、止めてあった自分のレモンイエローのハイトワゴン車に乗り込んだ。そして、ハンドルに突っ伏して暫く泣いた。ひと泣きして気持ちが少し落ち着いてから、エンジンをかけてガーデンハウスに向けて発進した。

「全く……ニ度も離婚届を書いて出すなんて……」

 一度目は秘書を介して無理矢理突きつけられて、今度は自分の意志で書いて出した。今度こそ本当に離婚成立ね。
 もう二度と私を泣かせないと言ったのに、あなたって嘘つき!!でも仕方ないわね。あの事故が原因なのだから……。あの時あなたの心は死んでしまったのね。もう二度と生き返ってくれないの?私を置いて遠い所に行ってしまったの?

 ガーデンハウスについたら、心が萎えてしまったのだろうか?頭はガンガン痛くなるし、胸がムカムカして吐きそうになって、まるで這うように小屋裏部屋への階段を上ってベッドに潜り込んだ。
 智弘が怪我をしてから、ずっとお店は閉めたままだ。気持ちを切替えてすぐにでもお店を再開しようか?でも、そんなエネルギーが湧かない。大好きだったこの家も、智弘との思い出が多すぎて、居るのが辛い!!
 暫くここを離れようかしら?何処か遠くに……。

 ベッドに横たわっていても、全然胸のムカムカは良くならず、もどしそうな危ない状況になってきて、また体を引きずるように階下に降りてきて、キッチンのシンクにもどしてしまった。『全くついてない!!』何処に怒りをぶつけていいのか分からないけれど、とても腹が立ってくる。ザーザー流れる水をすくって、顔にバシャッと何度もかけた。
 そうしている内に、ふと思い出したように、ある事に気が付いた。

 ――そう言えば、先月から生理が来てない!!まさか?

 そのまさかは、翌日近所の産院に行ってはっきりした。
 ――妊娠2ヶ月……。
 昨日は絶望で心の中がいっぱいだったけれど、まるでパンドラの箱のように、箱の中から希望と言う光が溢れ出した。
 とても嬉しかった。愛おしく優しくお腹を擦って心の中で呟いた。『この子は、私の愛したあの人と私の子。希望の子』まるで、大切な人の残してくれた忘れ形見のような、大きな宝物のような気持ちだった。
 何処か暖かくて環境の良い静かな所で暮らそう……。子供が大きくなるまで……。そしていつかまた、ここに戻って来よう。
 
 ――それから数日後に、杏樹は軽井沢のガーデンハウスを去った。

《第24話に続く》





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