金色の陽と透き通った青空
第24話 あの事故からの事(智弘SIDE)
 ――――あの事故直前の事。

 仕事が切り良く片付いて時間が少し取れたので、俺は今日もまた車を飛ばして杏樹に会いに行く。
 この季節、雪によるスリップ事故も増えてきて、杏樹はとても心配しているが、彼女を心配させてしまうのは心苦しいが、でもとても会いたくてたまらない。飛ばさないように細心の注意を払って運転には気をつけている。

 最近仕事がかなり立込んでいて、睡眠時間も僅かでキツイ日々だが、ほんの僅かでも時間があるのなら、彼女の柔らかな温かなぬくもりに触れたい。あのふんわりした笑顔を見ながら、あれこれお喋りして、彼女の温かな手料理を食べて……。
 それが俺の癒しであり、力の源であり、心をバランス良く保ってられる糧なのだ。

 俺は愛と言う物を知らなかった。言ってみれば心のないロボットのような物だ。総帥が作り上げた、自分の思い通りに動く優秀なロボットだ。
 3歳の頃出て行った母の事は、ほんの僅かしか覚えてない。泣叫んで、「行かないで!」と必死に追いかける俺と母親の後ろ姿……。あれが俺の鮮明に覚えている母親像。俺よりも自分の人生と幸せを選んだ人。
 杏樹と政略結婚で夫婦となった時にも、何の感情も無かった。今まで恋したり人を愛した事があっただろうか?恐らく無いであろう。俺にはそんな物は不必要だと思っていた。

 いつから杏樹に心魅かれ始めたのだろう?はっきりとは思い出せないが、乾いた木に染み入る清らかな水の様に、乾いた俺を潤すように杏樹が染み渡っていった。
 彼女の事を思うと心が切なく疼いてドキドキと時めき、体中が火照るような、ジンジンと痺れるような、この何とも言えない不思議な感覚……。今まで体感した事のないこの感覚を初めて知った時には、本当に衝撃的だった。そして、人並に愛と言う感情を持っていた自分が嬉しかった。俺も温かい血の通った人なのだと嬉しかった。
 愛する人がこの世の中に存在する喜び。俺の事を愛してくれてる人がいる幸せ……。俺は杏樹にとても夢中なんだとひしひしと感じた。熱中症のように燃え上がるような激しい愛情を抱いている。

 ――もうすぐ彼女に会える。高速を下りてもうすぐだと思うと、気が早って焦るが、気をつけないと……。杏樹はもう寝たかな?こんな時間だともう寝てるだろうな。軽い寝息を立てて眠る杏樹を起こさない様にそうっとベッドに入って、頬に軽くキスする。そして、彼女をふんわりと抱きしめたら、温かくて体だけではなくて心の中までぬくぬくとする。その瞬間が楽しい物だ。起こさない様に気を付けつつも、とても可愛らしくてついつい髪の毛を撫でたり、頬を軽くつついたり、長いまつ毛を指で触れてみたり、ちょっかいをかけてしまって結局起こしてしまう。本当は彼女に構ってもらいたくて、目を開けて欲しくてついつい構ってしまうのかもしれない。目を開けて、俺に気が付いて嬉しそうに甘えてくる杏樹……。なんて可愛くて愛おしいのだろう……。
 ふと我に返り、にやけ顔になっている事に気が付く。いかん、いかん。運転に集中しなくては。しゃんと気を引き締め時だった。いきなりタイヤがスリップして、車体がふらつき、慌ててブレーキを踏んだ。

 まるでスローモーションを見ている様だった。スピンしながら雪壁に激突、大破する車、あちこち体を打ち付けながら、最後は側面のガラスに酷く頭を打ち付けて、『ヤバイ!しまった!!』と思った。
 この状況では助からないかも……。でも、こんな場所で死にたくない!!悔しかった。悔しくて、悔しくて、仕方が無かった。『杏樹と離れたくない!!杏樹!!――あんじゅ――っ!!』俺は夢中で叫んでいたような気がする。
 遠のいていく意識に逆らうように、杏樹とのこの記憶だけは、この思いだけは、消し去りたくない、奪われたくないとギューッとオブラートに包む様に意識を集中させ、誰にも奪われないように必死に抵抗し続けた。どんどん深くなっていく闇に落ちていきながら……。


 * * * * *


 真っ白な何もない世界の中に俺は居た。「あれ、俺、何をしていたんだっけ?」思い出そうとしても何も分からない。俺は一体……。必死に奪われないようにと何か逆らっていたような、抵抗していたような、何だったんだろう?
 眠っている間はとても気持ちが良かったのに、目が覚めたらとても苦しかった。頭は割れるように痛いし、体中が痛くてずっしりと重い。自分の体であって、そうではないように思えてくる。
 朦朧とした中で女の声が何度も聞えて来た「あなた!!智弘!!」。馴れ馴れしく俺を呼ぶその声は誰なんだ?!お前は誰だ?!

 ゆっくりゆっくり頭がハッキリと冴えてきて、夢から覚めたようになった時、目の前に心配そうな顔の女がいた。俺の事を何度も呼んだ声の主。お前は……。その顔は……。杏樹。
 あの時、総帥に命じられて秘書が杏樹に書かせた離婚届……。俺は反抗して、それをシュレッダーにかけたんだった。その後どうしたかな?!っ……くそう!思い出せない。何か大切な重要な事を忘れてきてしまっている気がするが……。思い出せなくて、心がモヤモヤして心の中がスッキリと出来なくて、無性にイライラする。思い出せない俺を、俺自身が責めてるような、嫌な気分だ。他の事は全て思い出せるのに。何で俺はここにいるんだ?ここは何処だ?杏樹は何で俺の側にいるんだ?俺にいったい何が起きたんだ!!!

 初めは、一生懸命世話を焼く杏樹に対して、悪い感情は持ってなかった。ただ、杏樹に関しての記憶が消去されてしまったのか?あの離婚届をシュレッダーにかけたその後辺りから、何故か思い出せない。その後俺達はどうなったんだ?彼女が海の物か山の物か?思い出せない分、不気味な気味悪さがあって、ついつい遠巻きに品定めをするように観察してしまう。本当に心の許せる人物なのか?正体がはっきり定まらない為、壁を作って警戒している状況だ。

 ――謎は徐々に解明した。
 体も回復して状態が安定し、一般個室病棟に移り、見舞いの者も日増しに増えてきた。そんな中、鷹乃宮家にゆかりのある会社の重役達が、声を揃えて同じような事を言ってきた。

 ――杏樹が法外な慰謝料をよこせとごねていて、未だに離婚が成立出来ず、総帥が非常に憤慨されている。
 ――総帥は、鷹の宮千晶との再婚を強く望んでいる。再婚話が進めば、今危機状況にある玖鳳グループに対して、高額融資の準備がある。

 来る者来る者口を揃えて同じ事を言って帰って行き、記憶が全くない事も手伝って、だんだんと杏樹への感情が悪い方に傾いていった。 一瞬心を許しそうになった分、俺を騙そうとした杏樹への憎悪が激しく燃え上がった。

 『この牝狐め!!俺が記憶を無くした事をいい事に、純情ぶって、俺を騙そうと言う魂胆か?』総帥への反発心から離婚届をシュレッダーにかけてしまったが、早まったか?わざと杏樹に見えるように、千晶とイチャついている素振りを見せて、杏樹の反応を伺った。
 『案の定だ!!本性を現したな!!』屋敷にいる頃には従順で大人しかったのに、千晶に食ってかかって、更に俺に向って離婚は絶対しないと声を荒げて……。これがお前の本性か?!
 こんな杏樹の姿を初めて見たと思う。俺は脅威のような恐れのような感情を抱いた。その情けない自分に腹が立った。『なんだ!!こんな女!!』虚勢を張るように『訴訟してでも離婚を勝ち取る』と明言した。

 ――――それから……。
 俺がベッドの背もたれを起こして、起き上がり寛いでいる時だった。
 毎日のようにやって来て、ギャンギャンとまあ良く喋るこの女”千晶”が突然俺に抱きついてきてキスしてきた。『嘘!!勘弁してくれよ!!』法外な金目当てで離婚を渋る杏樹を追い払う作戦で、千晶と親しい素振りをしていたが、この時、この女の方が数倍苦手だと思った。生理的に無理!!ゾワーッと悪寒が走った。

  ――――その翌日、杏樹は来なかった。
 毎日のようにやって来て、あれこれと世話を焼き、纏わりついていたあの女が……。今日は来ない……。
 ちょっと物足りない気分だ。まあ、いいか……。

 今日は千晶も来なくて静かな1日だ……。
 やる事も無く、昼食後睡魔が襲ってきて、いつの間にか寝入ってしまった。2時間ぐらい寝ただろうか?ふと目覚めてベッドサイドテーブルの上を見たら、手作りのような焼き菓子の袋が置いてあった。『誰か見舞いに来たのか?』
 焼き菓子の袋の下に、記入してある離婚届が置かれていた。『杏樹……。あいつ、俺が眠ってる間に来たのか?あんなに離婚しないって言ってた割には、アッサリと……』あまりにも呆気なくて、呆然としているような気分だった。何故だか少し胸が痛く疼いた気がする。

「これ……。あいつが作ったのか?」
 
 俺はリボンを解いて、袋から貝殻の形の焼き菓子を取り出して一口食べた。『えっ?!……。この味!!』懐かしい味だった。一口、また一口……。口に入れて噛みしめる度に、自分の中に何かが広がって行った。忘れていた事が蘇ってくるように、マジシャンのシルクハットから膨大なトランプが飛び出してくるように、記憶の扉が開かれブワッと映像が溢れ出してきた。

 含羞みながらふんわりと笑う杏樹の笑顔。拗ねて片眉を吊り上げて口を尖らせて怒る顔。ボロボロと真珠のように大粒の涙を目から溢れさせ泣く顏。温かなミルクティーのようなまろやかな声で、俺の名前を呼ぶあの声。

  ――――ポタポタと滴がサイドテーブルの上の離婚届用紙の上に落ちた。『えっ……。涙か?俺は今、泣いているのか?』

 あの家は?森の中のガーデンハウス。店か?店名は?なんて書いてある?”森の中の小さな焼き菓子のお店 アンジュ”?家の中も見える……。クッキングストーブに、カントリー調のベンチソファー。俺と杏樹が並んで座って笑ってるじゃないか?

  ――――杏樹っ!!俺は今はっきり思い出した。何でこんな大事な事をっ……。

《第25話に続く》

 



 
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