【電子書籍化】長靴をはいた侍女

【通常版配信記念SS】長靴をはいた婚約者 前日譚

 ファウスとロニの関係は、婚約まではとんとん拍子に話が進んだ。
 ファウスはそのことについては、とても満足していた。彼女の家族は、誰一人も反対することなく、むしろ喜んで受け入れてくれたからである。
 そこまでは、そこまでは本当に良いことだった。
 問題はその後である。
 婚約後の方が彼女と会えないという、まさかの逆転現象が起きてしまったのである。ロニはもはや子爵家の侍女を辞めていて、結婚まで実家住まい。もうファウスの働く伯爵家に配達に来ることはない。
 ファウスはファウスで、拘束時間の長い執事の仕事により、休みを取ることができない。出入りの商人に、お金を握らせて手紙を運ばせるので精一杯だ。
 顔を見て話をして手を握るという、婚約者として当然の権利さえ、ファウスは滅多に手に入れられないのである。
 こんなに愛の言葉のひとつも囁く暇がなければ、彼女に愛想を尽かされても仕方がない。勿論、そんなことで彼女が愛想を尽かすとは思っていない。そう信じたい。
 しかし、花の都を風を切って歩く伊達男たちが、全員ファウスの不甲斐ない現状を見て嘲笑している気がした。

 これではいけないと、彼は立ち上がった。仕事のスケジュールを速やかに確認し、そこであることに気づく。明日、侍従が市庁舎まで書類を届けることになっていた。彼はこれに目をつけた。これを自分が代わりに行けばいいのではないか、と。
「旦那様、明日私は市庁舎まで書類を届けに行って参りますので、午後は不在の予定です」
「その仕事は、侍従でもいいだろう」
 主は首を傾げた。そんな彼を前に、執事のファウスは姿勢を正して語り掛けた。
「旦那様、婚約者の御方と最近いつお会いになられましたでしょうか」
「三日前だが?」
「次はいつお会いになられるのでしょうか?」
「……明後日、観劇の予定だな。そんなスケジュールは私よりお前の方がよく知っているいるだろう」
「左様ですか。私の方は、既に日曜日の数を四回数えております。旦那様ほど聡明な御方であれば、私の片手の指が五本しかないことをきっとご存知でしょう」
「……分かった分かった。明日の午後はファウスに書類を任せる」
「旦那様の寛大な御心に、心よりの感謝を」
 回りくどい表現の意図するところに気づいた主は、面倒くさそうに手で払う仕草をしながらも、彼の希望に許可を出した。ファウスはようやく外出して、婚約者に会いに行く時間を勝ち取ったのである。

「ファウス、まあ……!」
 ロニの家の扉を叩いたのは、午後に入ってすぐ。市庁舎に向かう前である。外套に身を包んでいるのは、小雨のせいだった。
 出迎えたロニは大きく驚き、それから心からの笑みを浮かべて彼を出迎える。
「今日は雨の日で、とても寂しかったのです……来てくれてありがとうございます……綺麗、いい匂い」
 ファウスが渡す小さな花束を彼女は大事そうに受け取って、湿度とともに立ちのぼる花の香りに目を細める。そしてまた彼を見上げた。
「今日はゆっくりできますか?」
「これから市庁舎に行かなければならない」
 馬車は大通りに待たせている。そう長い時間ここにいることはできない。
「そう、ですか」
 せっかく会えたというのに、もう行ってしまうのかと、彼女が視線を下げる。しかし、婚約者を寂しがらせたままでは、ファウスの心がすたる。
「帰りにもう一度寄る予定だが……ロニに頼みたいことがある」
「頼み、ですか?」
 もう一度会えると聞いて、ぱっと顔を上げた彼女だったが、素直に喜ぶより先に疑問という名の目隠しに戸惑っている。
「私の贈った長靴をはいて、レインコートを用意して……私の帰りを待っていてくれないだろうか。この雨の街を、ロニ、君と歩きたい」
 今朝、小雨が降っているのを見て、ファウスが計画した彼女との逢瀬がそれだった。往路でロニに話をして、復路では馬車を先に帰して彼女と雨の中を歩く。そしてファウスは、ロニを家に送り届けた後、彼女がいつも配達に使っていただろう道を通って、一人雨に濡れて伯爵家に帰る。
 他のどんな女性とも体験することのできない、ロニとだけ分かち合えるこの貴重な体験を、彼はこの雨に見出していた。
「はい、はい、喜んでお待ちしていますね」
 頬を赤らめて、こんなに幸せそうに笑う可愛い女性は、誰あろうファウスの婚約者である。
 彼女のために可及的速やかに仕事を完璧にすませて戻ってくる──ファウスは決意した。

「雨の日に、ファウスとこうして歩けるなんて……夢のようです」
「君を私の元に連れてきてくれた雨の下を、君と歩いてみたかった」
 雨に濡れる前に手をつなぐ。いまは執事ではなく彼女の婚約者なのだと、手袋を外した手で握る。互いの手の甲は雨に濡らされても、握り合った手の内には入らせない。
 寄り添い合うには雨具が邪魔で、見つめ合うにも雨が邪魔で、語り合うにも雨音が邪魔をする。雨とは本当にこんなにも面倒な存在であるのだと、ファウスは改めてその身で思い知った。いつも楽しそうに手紙を届けてきた彼女の見て来たのは、灰色に塗られた街の陰鬱なこの景色。
 けれど握った手は柔らかく温かい。彼女の長靴が、水を跳ねないように歩く動きは優しく軽やかだ。
「ああ、このままファウスを伯爵家までお送りしたい気分です」
「ロニ、それはいけない。私は君を家まで送り届ける権利を持っている」
「分かっています。でも、こんなに素敵な御届け物ができるなんて、きっと今日だけですから……ああ、やっぱり無理です。届けてしまったら帰り道が寂しくなりすぎて、家に連れて帰りたくなってしまいます」
 楽し気に、そして楽しさの向こうの寂しさまでも前借りしてきたロニが、握った彼の手を小さく引っ張る。
 連れて帰りたいという台詞は、ファウスが言うべきものであったというのに、先を越されてしまった。あまりの愛しさに思わず天を仰ぐと、灰色の雲から落ち続ける雨が彼の顔を濡らす。
「今日のこと、私、きっとずっと忘れません」
「私もだ」
 答えながら、ファウスはそれは正確には本当のことではないと知っていた。
 今日だけのことではないのだ。雨にロニの名前がついたその日から、雨の日の彼女を忘れることなどありはしない。受け取った全ての手紙は大事に引き出しにしまい鍵をかけている。鍵を回せば、いつでも鮮やかに彼女の思い出をたどることができる。
「こんなに素晴らしい雨の日に、手紙を書けないのは残念なことだ」
「……書きませんか?」
 突然、彼女はいいことを思いついたとばかりに声を弾ませた。
「手紙を?」
「はい、今日、さよならをした後に、お互いに家に帰ってから手紙を書きましょう」
「……いつ君に渡せばいい?」
 ファウスの問いに、彼女が握った手を中心にして、前にくるりと回ってファウスと向かい合った。
「今日の手紙は……結婚式の日に交換しませんか? この素敵な日を、これからずっと思い出せるように」
 レインコートのフードの下。上気した頬と、灰色の空を映しているとは思えないほど明るいカワセミの背色の瞳。
 ファウスはこの時ばかりは──雨を恨んだ。
 ずっしりと濡れた外套では、彼女を抱きしめられない。けれどいまのこの気持ちを、何事もなかったかのように雨に流してしまうこともできない。
「そうすることにしよう」
 ファウスは握った彼女の手を引き寄せた。もう片方の手で、彼女のフードを少し持ち上げ、濡れた髪を少しよけると、その白く丸い額の雨に口づけた。彼女の体温でほんのり温まった、今日の雨。
 ファウスは、それを自身の唇で覚えた。

 彼女を家に送り、ファウスがいまこの世で一番恨めしい別れの言葉を口にして、ついに彼は一人になった。
 小雨はまだ降り続いていて、さっきまでの温かで柔らかな時間は失われたのだと、ずっと握って守っていた手のひらが濡れることで教えられる。
 それでも彼は、本当の意味で一人ではない。
 伯爵家に向かう道のりは、ロニが教えてくれた。これまで何度も通った彼女と、その手紙の記憶が、いまもなおファウスに寄り添って歩いている。
 それに、彼は帰り着いた後に手紙を書ける。今日、何度も何度も彼の中で熱を上げて渦を巻いた気持ちを、彼女にしたためることができる。
 彼女と今日の手紙を交換する日は、もう別れの言葉を言う必要がなくなる日でもある。それはロニが忙しい彼にくれた、最高の約束。

 雨の日の手紙を渡し合う日──彼女はその約束を、絶対に破らない。
 ロニは必ず、恋の手紙を届けてくれるのだから。

 結婚式の天気など、誰にも分からない。
 ただし、分かっていることはある。結婚式にもし雨が降ったとしても、ロニもファウスもそれを厭うことは絶対にないだろう、ということだ。
 ファウスは濡れた石畳を踏みしめながら、もう一度空を見上げた。
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