瑛先生とわたし
プロローグ - マーヤ - 


”マーヤ” と呼ぶ声は甘く 私をウットリとさせる

瑛 (あきら) 先生の声は心地良く まるで羽根でなでられたように 

ふわりと耳をくすぐるの



「マーヤ そこにいるんだよ」



優しい目にそう言われると 何があっても動かないわ とさえ思う

私は言われたとおり お気に入りの椅子に座ると 

じっと先生の手を眺めることにした

息を詰め 一心に紙に向かう姿は 妥協を許さない先生らしく 

眼差しがいつもと違う 

優しい目も素敵だけど こんな目も好き……



瑛先生には息子が一人いて 名前を 渉 (あゆむ) という

小学5年生の生意気盛りで 私を見ても ふんっ と完全無視のときもあれば 

機嫌のいいときはすり寄ってきたりもする

子どもと大人の顔が見える渉は 家では先生を ”パパ” と呼ぶのに 

同級生の前では ”お父さん” ときには ”オヤジ” なんて言い換えて 

カッコつけているのも知っている

最近 渉に好きな女の子ができて その子には 

”俺はさぁ” なんて言っている

家族の前では ”僕” なのに ちょっと笑っちゃう



瑛先生に奥さんはいない

7年前に亡くなったんだって 

私が瑛先生と出会う前だから 詳しいことはわからないけれど 

知っているのは 奥さんの名前が 藍 (あい) さん だってことだけ



ときどき この家にやってくるのが 藍さんのお兄さんの龍之介さん

この人 こともあろうか犬好きで この家にくるのに 飼い犬を連れてくる

おじいさんといってもいい老犬で ここにきてもお行儀良く座っているだけ

まるで空気のように部屋に溶け込んでいる

私を見ても何の興味を示さず 定位置に座り込むと そのまま動かなくなる


私は 龍之介さんがちょっと苦手だ

だって 瑛先生に良くない誘いばかりしてくるんだもの

この前だって 合コンに行こうって……いつも家に篭っていると体に良くないぞ

なんて言ってたけど 誰からも好かれる先生を引っ張り出す口実だってこと 

私にだってわかるわ

先生はもちろん断ったけどね

真面目な瑛先生と龍之介さんが どうして仲が良いのか とっても不思議

なんとかって言う会社の 社長兼プロデューサーで 先生の個展の構成など 

龍之介さんが一手に引き受ける

そのときは なかなかやるじゃないって思うけど



そうそう 先生の職業は書道家

名のある賞を受賞して 『書道界の貴公子』 なんて言われた頃もあったと

教えてくれたのは 瑛先生のお姉さんの 樺音 (かのん) さん

離婚して 渉より二つ年上の男の子がいるシングルマザーで 

颯爽と仕事をしているカッコイイ大人の女の人だ

私 この人は好き

私の顔を見ると 「マーヤちゃん いつも可愛いわね」 って

言ってくれるんだもの



ほかにも 先生のご両親とか 亡くなった藍さんのご両親やお友達

渉の学校の先生や サッカーのクラブのお母さん達

先生の教え子 講座の生徒さんなど この家には毎日誰かの訪問がある






「マーヤ おいで」



今夜も私を呼ぶ声がする

声の方を振り向くと ”こっちへ……” と手招きが見え 

私は足音を忍ばせながら 先生のベッドへと歩みだした

寝室に入ることを許されているのは 私のほかには先生の息子の渉だけ

その渉でさえも 一緒にベッドに入ることはない


私だけに与えられた特権……

今夜も私は先生の傍らで眠りにつく 


好きな人に少しでも良く見られたいと思うのは 女なら誰でも考えることじゃ

ないかしら

私だってそうだもの

背筋を伸ばし しっぽをピンと立て 足先を気取って運びながら 

優雅に先生のそばに行く



「マーヤ 今夜も僕を温めておくれ」



ゴロゴロと喉を鳴らしながら 私は先生のベッドの縁に ゆっくりと飛び乗った



                                         
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