瑛先生とわたし


瑛先生の書に出会ったのは、本当に偶然だった。

久しぶりに歩く東京の街は懐かしくて、時々通っていた画廊街に足を運んだ。

画廊街の一角で書の個展が催されていた。

子ども連れであり、会場に入るのを躊躇していたら、「どうぞ」 と声を掛け

られた。

それが瑛先生だった。

腕に抱く透に手を伸ばして、自分が抱いているからゆっくり見てくださいと言

われた。

お言葉に甘えて、ゆっくり拝見して、私なりの感想をお伝えした。

帰り際に名刺をいただいた。


住まいが近くだとわかり、さっそく先生のお宅を訪ねた。

入門を決めたのは、子ども連れでもいいですよと先生がおっしゃってくださっ

たから。

学ぶことに飢えていた私は、すぐに入門を決めた。

姉のこと、透のこと、それらを隠さなければならないこと、すべてを瑛先生に

打ち明けた。



「秘密は守ります。安心して通ってください」



先生の言葉は、私に学ぶ喜びをもたらした。

習い始めて、筆を持つことも嬉しかったが、お稽古仲間にも恵まれ楽しい時間

を過ごしている。

中でも、長谷川龍之介さんは私に良くしてくださる。

瑛先生は、穏やかで、大人の魅力があって、みなさんが言うように素敵な方。

龍之介さんは、話しやすくて、親しみがあって、お話も上手で楽しい方。

「蒼ちゃん」 と呼ばれると嬉しくて、心がキュンと高鳴って、

恋の予感? なんて思ったりもする。


けれど、龍之介さんと必要以上に親しくなるわけにはいかない。

それは、龍之介さんが 『ダンサー 花田 紅』 を知っているから。


ある会社のイメージキャラクターをつとめる 『花田 紅』 は、イベント会

社社長の龍之介さんと面識がある。

何度か一緒に仕事をしたそうだ。

龍之介さんと親しくなれば、『花田 紅』 と 『花井 蒼』 が姉妹だと気

づく恐れがある。

姉の存在を隠せなくなって、姉のプライベートも知られて、透のこともわかっ

てしまうかもしれない。


私のせいで秘密が漏れることは防ぎたい。

これまでの努力を無駄にはできない。

姉のためにも、透のためにも、それから、母を落胆させないためにも……


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