泡沫(うたかた)の落日

第12話 明かされる真実の予兆・2

 結構ゆっくり話し込んでしまったようで、夕食を済ませてそろそろ片付けを……。と思って時計を見れば、夜中の1時30分を回っていた。
 聖愛が片付けようとしたら、「手を濡らしてはいけないし、私がやっておくから君はもう寝なさい」と言われた。

「でも……。それでは……」

 メイドの身でありながら、ここの主である旦那様に片付けをさせるだなんて、とんでもない事だわ。と聖愛も片付けようとしたら、嶺司に制されて、「これは私の命令だ!!」と、意地悪そうな笑を浮かべ、「いいから早く寝なさい」と言われた。

「本当にすみません。あの……。では、お先に失礼させていただきます」

 申し訳無さそうな表情を浮かべ、聖愛はペコリと頭を下げた。

「あ……。今日から、元君の部屋だった部屋を使いなさい。クローゼットのエキストラベッドは明日、片付けさせるので」

 記憶を無くして初めて会った時とは全く違う穏やかな優しい表情で、嶺司はテーブルの上の食器を片付けながら言った。

「でも、それでは……」
「いいから。君の観察期間は終了。何の企みも悪意も他意も持ってないと言う事が分ったから。もう子供じみた意地悪のような事はやめて、君が記憶を取り戻しこれからどうするのか結論が出るまでの間は、こうやって共に穏やかに楽しい時間を共有出来ればと思ってるし。今日からは友人として君をうちに迎えたいと思ってる。まあルームメイトみたいなものだと思って貰えれば……」

 (ルームメイト?! 友人?!)元夫で、先程まで旦那様だったのに、今度は友人って……。回りから冷ややかな視線を受け阻害されたような寂しい気持ちだった聖愛は、頼もしい心の支えになる人が出来でとても嬉しかった。でも、ただただ甘えているだけと言うのは申し訳ない気持ちだ。

「あの……。突然に見知らぬ世界に放り込まれたようで、とても心細く思っていたのに、旦那様のような素敵な頼もしい友人が出来て嬉しいです。ですが、ただ甘えてお世話になりっぱなしと言うのもとても心苦しい気持ちで……。ですからこのまま、メイドの仕事をやらせて頂けたらと……」

 嶺司はとても困った困惑の表情を浮かべ、苦笑した。

「う〜ん。もうメイドとして君を雇う気持ちは無いので……。でも、お願いがあるんだ」
「お願い……ですか?」
「君の作る朝ご飯、とても美味しかったから、毎日作って貰えたらって……」

 照れ笑いしながら、新しい提案をする嶺司。

「そんな事はお安い御用です。是非作らせて下さい」

 人に喜ばれ必要とされる事の嬉しさ……。聖愛はパッと明るい笑顔でその提案を快く承知した。

「それからまだあるのだが……」
「はい。私に出来る事なら何でも言って下さい!!」

 色々お役に立ちたい!! 喜んでもらいたい!! 聖愛は心からそう思った。もしかしたら、見知らぬ自分の過去の過ちの贖罪のような、そんな気持ちもあったのかもしれない。過去の自分は、旦那様を酷く傷付け苦しめてしまったようだ……。こんな良い人を……。償いたい……。そう思った。

「友人として、私が家にいる時には、いつも一緒に食事に付き合ったり、話し相手になって欲しいのだが……。あとは、休日に一緒に出掛けたりとか……。その、友人なら当然の事だと思うのだが……」

 嶺司の本心は、あの時叶わなかった、ほのかに甘い新婚生活を取り戻したい願望があった。一緒に楽しい穏やかな時間を過ごしたい……。一目で恋に落ちた、あの時の彼女が今目の前にいるのだ。
 あの頃、彼女の本性を知った時、もう二度と、こんな女は御免だと思った。憎悪と嫌悪に満ち、一生関わりたくないと思ったのに……。また彼女の罠に落ち、同じ過ちを繰り返す事になってしまうかも知れないのに……。愚かな馬鹿な奴だと自分が笑えてくるが、今ここにいる彼女は、心に描いていた姿のままの彼女だった。

「あの、はい。私は全然構いません。むしろ、嬉しいと言うか……」
「じゃあ決まりだ!! そうそう……。手の怪我が治るまでは、食事の支度はやらなくていいから、シェフに2人前、朝食を頼んでおくので……。こんな時間になってしまって申し訳ないが、明日は朝6時45分にダイニングで……。一緒に食事につきあってくれたら嬉しいのだが……」
「はい。是非……。私の方こそ……。今日は病院まで連れて行って下さって、こんな時間までお付き合いさせてしまってすみませんでした。それからありがとうございます」

 お互いに微笑み合い、気持ちが通じ合ったような、幸せな一時だった。

 希望と勇気が湧いて、聖愛は就寝前、ベッドの中に潜り込んでから、渡部さんから受け取ったファイルを開いてみた。恐れていた過去の不行跡に付いては何も触れてなく、ただ淡々と、身上書のような内容が書かれており、少しホッとしたのと同じに、肩を落とすような気持ちにもなった。

 ただ、自分の生い立ちを見て、経済的には恵まれた環境だった様だが、精神的にはあまり恵まれていない環境で育っている感じだった。

 実の母親は3歳の時に自分を置いて出て行き、そのすぐ後に父は再婚、恐らく父親が後に義理の母親となるその女性と浮気、実の母は耐えられなくなり離婚、家を飛び出したのではないかと感じた。母親の行方は分かってないらしい。
 
 義理の母親は、性質の悪い女性だったようで、人には分かりにくい服に隠れて見えない部位を狙って虐待を繰り返していたようだ。主に火の付いたタバコを押し付ける行為で、その時の痕が今でも体中(主に腹部)に残っているとの事だ。
 また、ある時頭を切る大怪我をし、左の髪の毛の生え際近くに3センチぐらいの傷跡がうっすらと残っているらしい。その事が原因で義母の虐待が発覚し、義母と再婚3年目に離婚。以後父には愛人のような女性は何人もいたらしいが、二度と結婚はしなかった。

 (――そんな傷跡あったかしら?)今まで入浴していても全く気が付かなかった。生え際に傷が?
 そんな不幸な生い立ちのせいで、過去の私は屈折していたのだろうか?

 聖愛は酷く気になって、ベッドから起き上がりパウダールームに行って、鏡に顔を近づけて左の生え際の辺りをじっくりと観察した。髪の毛を細かく掻き分けて見てみたが、何もそのような痕は無かった。
 今度は、スエットのパジャマの上衣をたくし上げて、腹部を鏡に映してじっくりと見てみたが、白く艶やかな傷一つない肌で、染み一つない。

 一体、どういう事なのだろう……。渡部さんの調査ミスとか、まさか私、本当に藤城聖愛では無いのかも……。まさか……。調査書では一人娘になっている。戸籍上もそのようだ。
 私の実母の事も知りたい。出来たら会いたい。その反対に、実父には会いたいとは思わなかった。犯罪に手を染め拘置所にいるような人だ。実母を追い出し、愛人と再婚するような人……。嫌悪感を感じた。

 昨日とはまるで違う、天蓋付きのふかふかのベッドの中で、聖愛はあれこれと考えを巡らせていた。
 傷跡の事は明日、旦那様に聞いてみよう。結婚していたのだから、私の全てを知っている筈だ。えっ……。私の全てを知っている? そんな事を考えていたら、凄く恥ずかしいような気持ちになった。結婚していたのだから、旦那様と寝所を供にしていた事もあると言う事よね? 今の私にはそんな事、とてもとても信じられないと思った。まるで、経験のない無垢なままの気がしたのだ。手を繋ぐ事でさえ、心臓が跳ね上がり尋常ではいられないような……。ここに男性まで連れ込んでって言ってたわ……。男にだらしなかったって……。今の私には信じられない事だ。考えただけで悪寒が走る。
 ゾクゾクッと急激に寒くなった。過去の私って……。なんて汚れて醜い人だったのだろう……。

 ――私って……。

 凄く素敵で魅力的な、世の女性が放っておかないような、そんな素敵な旦那様を、怒らせ嫌われるような事をして来たのよね? 
 考えれば考える程、気持ちは落ち込んで来る。過去を書き換える事は出来ないけれど……。それでも、消し去りたい過去だ。心はグッタリ疲れ、それと共に段々睡魔が襲ってきた。

 (第13話に続く)



 
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