泡沫(うたかた)の落日

第13話 明かされる真実の予兆・3

 翡翠(ひすい)色に、露草(つゆくさ)色に、薄花桜(うすはなざくら)色……。青と緑が柔らかに溶け合うように、キラキラ輝く湖面。あまりにも美しくて暫くうっとりと見つめていた。
 私ははボートに乗っていて、ゆっくり、ゆっくりと湖面を滑るように進んでいく。湖の回りを縁取るように、こんもりと茂る美しい緑の森。その鮮やかな色が水の鏡に鮮やかに映し出される。何処からか時折聞えて来る、音楽を奏でるような心地良い鳥の鳴き声。パシャリと音を立てながら、時折跳ねて湖上に姿を現すボラ。陽の光に反射して、ほんの一瞬銀色に光り、また湖面に消える。

 (――ああ、気持ちいいな……)

 そんな穏やかな時間が突然奪われ、凶器に満ちた歪んだ醜い女の顔が眼前に表れた。

 (――消えて!! 私の前から消えてよ!! あんたなんか居なくなればいい!!)

 あれは……恐ろしい形相の私だった。あれは人じゃない!! そうだあれは悪魔だ……。人の皮を被った悪魔……。その悪魔が両手を伸ばして、もう一人の私に襲いかかってきた。

 (――助けて!! だれか。助けて!!)

 『ハッ!!』と気が付けば、ベッドの中だった。嫌な夢……。
 時計を見ればまだ朝の5時過ぎ。もう一度寝たらまたあの恐ろしい夢に誘われてしまいそうで、もう一度寝ようとは思わなかった。まだ起きるのには早いがやる事も無く、ベッドから出て、カーテンを開けて外の景色を見る。まだ明け切れてない薄紫色の空には星が瞬き、月が顔を出していた。

 着替えて階下に降りて行き、キッチンに行くと、昨夜シェフが用意しておいてくれた、朝食が置かれていた。温め直して用意をするにはまだ時間が早すぎる。何をして時間を潰そうかな? と思い、夜明け前の屋敷内の庭園を散歩する事にした。
玄関扉を開けると外はまだ薄暗くて明かりが無いと足下が覚束ない。用具置き場から持ってきた、アンティークなカンテラ照明をつけて外に出た。

 屋敷を出て棟続きの大きなガレージの方を見れば、明かりが灯っている。その明かりに吸い寄せられるように行ってみると、旦那様がいた。昨日、何やら車の整備をしようとしていた様子だったが、私を病院に連れて行ったりと用事を中断させる事になってしまったので、早朝起きて昨日出来なかった事をやっているのかもしれない。そう思ったら、申し訳ない気持ちになった。

「おはようございます」

 こんな早い時間にカンテラ照明を持っていきなり現れたので、旦那様は一瞬驚いたような表情をして、それから柔らかな笑顔になって答えてくれた。

「おはよう。随分と早いね」
「はい。寝覚めが悪くて早く起きてしまったので、早朝散歩でもしようかなと思って玄関を出てみたら、ガレージが明るかったので気になって見に来てしまいました。旦那様もお早いですね」

 聖愛が“旦那様”と言ったので、嶺司が少し不満そうな顔をして口を開いた。

「今日からルームメイトだよ。“旦那様”は禁止。名前で呼んで貰えないかな?」
「えっ?」
「早く“嶺司”って名前で呼んでみて」
「…………」

 どうすればいいのか一瞬固まってしまった聖愛だが、この沈黙を破るには、言われた通りにしないといけないのかしら? と、遠慮がちに小声で呼んでみた。

「れ……嶺司さん」
「声が小さいけれどまあいいか」

 クスリと笑って『morning!』といいながら、嶺司はいきなり抱きしめてきて、左頬にキスをした。聖愛はいきなりの事に頭の中が真っ白になり、危うくカンテラを落としそうになった。

「わ……私、お……お散歩に行ってきます」

 ロボットが頭を下げるようにペコンと挨拶をして、聖愛はカッキンコッキンという感じに歩きながら、ガーデンの赤い小道を歩いていった。その背後から『朝食は私が準備しておくから、ゆっくり散歩しておいで』という声がおぼろげに聞えて来た。

 それから何処をどう歩いたのか? 全く覚えていない。体に残る抱きしめられた大きな腕、左頬に残る柔らかな唇の感触……。それが何度も頭の中でループして、心臓は張り裂けそうに波打ち、時々赤い小道の枕木に足をさらわれ蹌踉めいたり……。辺りが明るくなって来て、星が陽の光のベールに包まれ薄く見えにくくなり、薄紫色の空が淡いオレンジ色に色付き、カンテラをつけなくても足下が見えてくるようになって、やっと波打つ鼓動が落ち着きを取り戻し始めた。

 ふと気が付けば、真っ白なガーデンアーチに“ハーブ&ベジダブルガーデン”と書かれたサインボードの下がってる、菜園のような所に来ていた。こんな所に菜園があったなんて……。10月というこの時期は、ハーブ畑は休眠期で少し寂しい様相になっているが、菜園の方には秋冬物の野菜が瑞々しく育って整然と並んでいた。
 菜園にはガラス張りの大きな温室もあり、色とりどりの花や、ハーブや、葉物野菜などが育てられていた。温室の中に入ると、嶺司さんが居た。ワイン樽を横に半分に切った樽鉢のプランターで育ててる、ベビーリーフを摘み取っていた。

「やあ、早朝の散歩はどうだったかな?」
「は……はい。とても素敵で心が洗われました」

 何となく先程の嶺司の行動が思い起こされて、聖愛の気持ちが落ち着かない。ただの西洋風の挨拶のキスよね? そんな意識しすぎる事でもないわよね? また鼓動が早まるのを悟られないように、懸命に何事もないような素振りを演じてみた。
 この気まずい雰囲気を打破しないとと、懸命に話題を考える。
 
「それ、ベビーリーフですよね?」
「今朝はとても早起きだったし、朝のサラダ用にと思ってね、詰みに来たんだ。あまり好みじゃないかもしれないけど、体に良いし、君も少し食べてくれたらいいんだが……」

(えっ? 私がベビーリーフが苦手? そんな事ないと思うけど……)

 水菜、ルッコラ、小松菜、レッドマスタード、レッドカラシナ、グリーンマスタード、ピノグリーン……。瑞々しく生い茂るピンと育った詰みたての若葉……。それを見つめていたら、「凄く美味しそう……」聖愛は無意識にポツリと呟いた。
 その一言に反応し、作業を止めて、嶺司が不思議そうな顔をして見つめて来た。

「本当に……不思議だよな。昔と好みがまるで違うよね……」

 聖愛もその言葉が意外に感じた。何となく味も記憶に残ってるし、私の好物だと言う気がする。特に好き嫌いは無いと思う。

「えっ。そうだったのですか? 今の私は、お野菜大好きですし、何となく味が分かるというか……。とても好きですよ」
「本当に、まるで違うんだよな……」

 その嶺司の言葉で、聖愛はある疑問の事を思い出した。

「実は昨日、渡部さんが調べておいてくれた私の調査書に、幼い頃に痕が残るぐらいに義母から辛い目にあってる事が書かれてましたが……。それは、本当なんですか?」

 少しの間沈黙が続いたが、やがて、言い辛そうに苦い表情をして、嶺司が重い口を開いた。

「確かに……。所々痕があるみたいだね。服に隠れてる所だし、それ程酷い痕じゃないから、そんなに気にしなくても大丈夫だと思うのに、君は酷く気にしてたね」

 その返事に、聖愛はやっぱり変だと確信のような気持ちが沸き起こった。

「私……。昨日鏡に映して見て見ましたが、それらしい痕は何処にもありませんでした。私、本当に藤城聖愛なんでしょうか?」

(第14話に続く)
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