泡沫(うたかた)の落日
第ニ章 私の帰るべき場所

第16話 突然の訪問者

 ――それからの日々……。
 主に多忙な嶺司の都合に合わせる事が多いが、出来るだけ朝夕一緒に食事を共にし、他愛ない事を話題に会話し、時には一緒に出掛けたりと、いい友人関係を築いてきた。一定の距離を保ちながら、互いに気遣いながら……。

 だが、表面上は何事も無かった様にサバサバとした良い友人関係であるかのような雰囲気を演じているが、嶺司の心の内は、自分の気持ちを受け入れて貰えなかった落胆と苦しみで、溢れ返っていた。そして、いつか自分の元から永遠に居なくなってしまう日が来るのかと思うとたまらなく淋しい気持ちになり、その日が永遠に来なければいい。結愛がこのまま記憶を取り戻さずに、誰からも探されなければいいと、いけないことを密かに願ってしまう自分がいて、そんな自分の身勝手な考えに嫌悪感を抱き、落ち込む日々が続いていた。
 時には、いっそ無理矢理自分のものにしてしまおうかと、飛んでもないような腹黒い良からぬ欲望が沸き上ってくることもあり、そしてその後には、自分はなんて事をと、己を叱責し戒め、自分に試練を与えて鍛え直すかのように、仕事に没頭した。

 一方結愛も、心苦しい日々を送っていた。
 いくら姉の元夫だったとしても、今は離婚して何も障害になる事は無いはずなのに、なぜなのだろう……。どうしても素直に受け入れられないのだ。彼の真心を受け入れる事は、悪い事だ……。そんな感情が沸き起こり、心にブレーキが掛かってしまう。
 自分の心に正直に問いかけてみれば、嶺司に対して淡い恋心を抱き、とても魅かれ始めていると感じていた。
 本当は心を開いて、彼の真心を受け入れたい……。だけど、それがどうしても出来無かった。何故いけない事なのだろう……。何が妨げとなっているのだろう? その答えが見付からない。
 いつの日か記憶が戻った時に、全てが明らかになるのだろうか?

 「……ナ、……ナ」

 結愛は突然頭に閃光が走った様になり、ハッとして、その途端朝食のミルクの入ったグラスを手に引っかけて倒してしまった。テーブル一面に真っ白な液体が広がった。

「あっ、すみません」
「いや、気にしなくて大丈夫だよ。驚かせてしまって申し訳無かったね」
「いいえ……。私がぼんやりしてたのがいけないんです」

 結愛が慌ててキッチンに行って、台ふきんを持って戻って来ると、ティッシュボックスを抱えてテーブルに広がったミルクをティッシュで拭こうと一生懸命になっている嶺司の姿が見えた。

「本当にすみません」

 結愛は慌てて溢したミルクを台ふきんで拭きながら、申し訳なさそうに謝る。

「このぐらい何でもない事だから気にしないで」

 嶺司は慌てふためく結愛の気持ちを落ち着けるように、穏やかな顔で笑いかけた。その柔らかな優しい顔に、結愛の心は揺れ動いた。

 それから朝食を終え、今では日課のようになった結愛の入れたカフェオレを、嶺司と自分の前に置いた。
 嶺司は置かれたカフェオレを見てクスリと笑った。そこにはカフェアートで冷汗を垂らしながら苦笑顔で謝る結愛の顔が描かれている。

「かわいいね」
「先程のお詫びです」

 結愛も照れ笑をした。
 カフェアートは、結愛の得意の一つ。たまたまカフェオレを入れた時に、カップの中の泡立つミルクを見ていたら何となく絵を描いてみたくなって、自分にカフェアートの才能がある事を発見した。それ以来、嶺司にカフェオレを入れる時には、いつもサービスでカフェアート付きのものを出している。
 結愛のカフェオレは、入れる直前に豆を挽いてペーパドリップしたコーヒーに、ホイッパーでホイップしたミルクをコーヒーと同量ぐらい入れるのが定番。ほんの少しシナモンを加える事も……。人気のコーヒー店に引けを取らない美味しさで、嶺司も結愛の入れるコーヒーが大好きだ。

 嶺司はひとくちコーヒーを飲んで、至福の一時のように幸せそうな顔になって微笑んだ。その嬉しそうな顔を見たら、結愛も嬉しくなり、幸せのおすそ分けを頂いた気分のようになり、自然と笑が溢れた。

 そうだ!!嶺司がふと気になっていた事を思い出す。

「そう言えばさっき呼んだとき酷く驚いた様子だったけれど、何か思い出したのかな……」

 ――そうだった……。結愛はミルクを溢してしまって大騒ぎして、ある事が思い出された事を、また忘れそうになったが、とても大切な事を思い出したのだった……。

「実は嶺司さんから呼ばれた時に、あの病院のベッドで目覚める直前に見た夢の事を、突然思い出しました」
「夢?!」

 記憶が戻ったのかと、嶺司はドキリとする。嬉しい事だが、反面、結愛との別れの時が近付くような不安と淋しさが募る。

「はい。目覚める直前、『……ナ、……ナ』って優しいおじいさんの声が聞えて来て、はっきりとは聞き取れなくて、何と言っていたのだろうって、ずっと気になってました。それが、嶺司さんから呼ばれた時に、急に思い出したんです。あれは『ユナ、ユナ』って私の事を呼んでいたんだって……。やっと思い出しました」
「おじいさん?」
「はい。まだ、記憶が断片的な感じなのですが、おじいさんが『ユナ』と私の事を呼んでいた事を思い出した途端に、急にバサバサと頭の中に思い出の写真の束が降って来たような感じになり、映画のフラッシュバックのように、幼い頃の記憶が沢山頭の中に浮かんできて……。まるで思い出の詰まったシャボン玉が次々と割れて、そこから飛び出してくるような感じで、酷く驚いてしまいました」

 なんとも不思議な事だ。記憶が戻り始めているのだろうか? 恐れていた事が起き始めているようで、嶺司は落ち着かないような不安な気持ちになる。

「で、何か分かったのかな?」

 結愛は先程の不思議な現象を思い起こす様に、時折遠い目をしながら、話し始めた。

「恐らく沖縄近辺の南の方の島ではないかと思うのですが、小学校低学年ぐらいの私が、50代ぐらいの船長さんが操舵する小型の船に乗ってる情景が浮かんで来ました。その船には、船長さんに私とおじいさんと、私より少し年上の男の子が二人……。船はグラスボートになっていて、美しい珊瑚や熱帯魚に、ウミガメ、海から降り注ぐ陽の光が海底のまっ白い砂に映ってキラキラしててとても綺麗で……。私はおじいさんに『おじい、あれはなに? おじい、これはなに? 』って嬉しそうに話しかけていて、そのおじいさんはニコニコと優しい顔で笑いながら、色々なお話しをしてくれて……。 そんな穏やかな雰囲気だったのが一転するように、その後突然大きな横波が来て、船が倒れそうなぐらい突然大きく揺れて、私は海に投げ出されてしまいました。 ライフジャケットを着ていたので、海に浮かんではいるのですが、近辺にはサメもいるみたいで、おじいさんが何度も必死に『ユナ、ユナ』って叫んでました。そこで映像が途切れてしまったようになってしまって、どうなったのかが分からないのですが、何となくおじいさんの大きな温かい手の温もりがこの手に残っていて……。だから、もしかしたら、おじいさんが助けてくれたのかもしれません。私はそれから水が恐くなってしまって、泳げなくなってしまったみたいです。きっと、その事がトラウマになって泳げなくなったのだと思うのですが……。そんな感じがします」
「そのおじいさんや男の子達は、結愛の親戚とか、もしかしたら一緒に暮らしていた家族なのかもしれないね」
「はい。私も船長さん以外はなんとなく身内のような親近感を感じて……。私、孤独で淋しい暮らしをしていたのではなかったのだなって、そんな温かさを感じました」

 結愛が嬉しそうに頬を染めながら言った。

「私もそんな気がするよ」

 (もしかしたら……。今、懸命に君の事を探している人達がいるのかもしれないな……)嶺司はいけない事をしているのではないかと、少し疚しいような申し訳ないような気持ちになった。
 聖愛と間違えたとは言え、ここまで連れて来てしまって……。結愛の事を必死に探している家族がもし居たとしたら……。ふともっと最悪な事も思い浮かんできた。もし、結愛が既婚者で夫がいたとしたら……。居るのかも分からないその夫に、激しい嫉妬心が芽生えてきそうな気持ちになった。

 ――何れにせよ、結愛の記憶が少しづつ戻り始めている兆候なのかもしれないな……。近い未来、結愛は自分の側から離れて居なくなってしまうのかもしれない……。急激にセンチメンタルな気持ちになった。
 そんなセンチメンタルな気分を打ち破るように、使用人の通用口になっているキッチン隣の食品庫の勝手口玄関が開く音がして、『おはようございます』と元気のいい声が聞えて来た。早番のメイドさんがやって来る時間だ。今日の早番担当は、白石さんと岡本さん。

 入って来るや否や白石さんがダイニングにやって来た。

「お食事中失礼します旦那様。あの……実は、屋敷に来る時に、門の所で屋敷を覗き込むように見ている若い男性が二人おりまして……。私が不審そうな顔をしながらその二人の横を通り抜けて、小門を開けて中に入ろうとしたら、結愛さんの写真を見せて、『ここに、こんな女性は住んで居ませんか?』と聞いてくるんですよ。それで、話しを聞いたら、中里結愛(なかざと ゆな)さんのお兄さま方だとおっしゃっているので、今、玄関の方でお待ち頂いているのですが……」

 嶺司と結愛は慌てて玄関に向った。

 ――そこには、結愛と同じ少し色素の薄い大きな澄んだ瞳をした、凛々しい綺麗な面立ちの結愛よりは少し年上らしい男性が二人立っていた。

(第17話に続く)
< 16 / 17 >

この作品をシェア

pagetop