恋衣 ~呉服屋さんに恋して~


* * *


 何も答えが出ないまま、夜になり、日曜日の朝が来てしまった。最後のお手伝いの日であり、花火大会当日だ。
 今日は翠さんの姿がなく、安心した。だけど十夜さんと私の間には、やはりどこか距離があって。こんなに近くにいるのに、もどかしくなるばかりだった。

「凛子さん、先に休憩へどうぞ」
「はい」

 時計がお昼近くを差し、私は十夜さんに促されるまま休憩へ向かった。
 健一君がいたらどうしよう。彼にはまだ、返事ができていなかった。
 心配していたけれど、休憩室に健一君の姿はなかった。
 ホッとして休憩から戻ると、十夜さんは丁度接客を終えたところだった。

「花火大会当日でも意外とお客さんは来られますね」
「ええ、他のお祭りへ行かれるのかもしれないです。それに着物が欲しいという方もいらっしゃいますから」

 わずかではあるが、浴衣と共に着物も持ってきていた。カタログも置いているし、話だけ聞いて帰る人もいた。
 休憩を三十分で切り上げたつもりだったけれど、その間にお客さんが相当来ていたのか、それとも近頃働き過ぎていたのか、息を吐く十夜さんの顔がとても疲れて見えた。

「十夜さん、あの……休憩に」
「いえ、実はもうここでお昼ご飯は食べてしまいました」

 スッと人差し指を唇に当てて、秘密の合図を送って来る。

「いつもありがとうございます。とても美味しかったです。卵焼きなんて特に」
「いえ……よかったです」

 十夜さんは、また私を一人にさせないために……。
 私は曖昧に笑って返すことしかできなかった。
 翠さんがこの場にいたら、有難く思うべきだとまた叱られていただろう。
(わかってはいるんです……でも、どうしても……)
 胸の奥に募ったわだかまりが、好意を素直に受け止めさせてくれない。
 休憩室へ持って行っていた荷物を置くために店の奥へ入ると、伝票が綺麗にまとめられていた。

「と、十夜さん……これ」
「あっ」

 私がまとめられた伝票を持って行くと、十夜さんは慌てたように駆け寄ってきた。
 普段からあまり取り乱すことのない十夜さんなのに。その様子に私の方が驚いてしまう。

「あ、ああ……伝票でしたか」
「……はい」

 何と勘違いしたのだろうか。十夜さんは私が持っていたものを確認するとホッと胸を撫で下ろした。

「今日でここが終わりなので、午前中までの分をまとめておいたのです。その方が早く帰られるでしょう」

 伝票をまとめるくらい、私もできるのに。それさえもさせてくれず、しかも何かを隠している……。
 私が黙ったままでいると、十夜さんは困ったように首裏を掻いた。それから、細く息を吐くと、何か心に決めたように私をじっと見つめてきた。
……なんだか、話を聞くのが怖い。

「後片付けは僕がするので、凛子さんは気にせずいつも通り帰ってくださいね」
「……え?」

 突き放された気がした。私は後片付けの手伝いもできないほど、役立たずだと思われているのだろうか。

「それで、もし良ければ……」
「ど……して」
「え?」

 私は十夜さんの言葉を遮り、無意識に喋りだしていた。

「どうしてですか。私には後片付けもさせてくれないし、店番を一人で任せてくれない。確かにまだ一人で店番は不安ですし、勝手もわかっていない。だけど、伝票をまとめたり、少しの間だけ一人でいることはできると思います」
「り、凛子さん」
「どうして……私に頼ってくれないんですか」
「……凛子さん」
「私はもっと十夜さんに頼られて、求められて……側にいたい。例え翠さんの方がお似合いでも……私は十夜さんの側にいたいんです」

 言ってしまった。
 翠さんが言っていた通り、全て言ってしまえばスッキリとした。
 店にお客さんがいなくてよかった。私の声は店内の騒がしい喧騒と音楽に掻き消されたようで、通り過ぎて行く人達も特に気にしていない様子だった。
 全て吐き出すというのは思ったよりも体力を使うらしく、言い終えた後もしばらく呼吸が整わなかった。
 胸が大きく脈打っている。呼吸が荒いのもあるけれど、十夜さんの反応を考えるとドキドキしてしまう。
 十夜さんは私がこんなことを言うとは思っていなかったようで、黒曜石のような瞳を瞬かせていた。そうして口を開きかけた時。

「凛子!」
「えっ……?」

 十夜さんが私に話しかけようとした瞬間、背後から声を掛けられた。

「け、健一君っ」

 振り返ると健一君がいた。まさか、ここで昨日の返事を言わされるのだろうか。

「凛子、最近辛そうな顔してたのって、その人のせいだろ?」
「そ、それはっ……」
「昨日の返事、聞かせてほしい。俺と……花火大会に行ってくれないか?」

 健一君が瞳に穏やかな光を灯し、じっと見つめてきた。
 私は――。

「生憎ですが、凛子さんには後片付けを手伝ってもらうことになっていますので」
「と、十夜さん……?」
「頼ってもいいんでしょう?」

 私を見下ろし、美麗な瞳をスッと細めた。
 そして呆然としている私の手を取り、健一君に見せつけるかのように手の甲にキスを落とした。

「凛子さんに、側にいて欲しいんです」
「十夜さん……」

 唇の温もりが、手の甲から全身に広がる。それは甘く、じわりと疼いて私を締め付けた。

「なんだ……仲直りしちゃったのか」

 健一君は苦笑を浮かべると、わざとらしく舌打ちをした。

「ごめんね、健一君。いろいろ心配させちゃったみたいで」
「ううん。また疲れた顔してたら、抹茶オレ持って行くよ」

 健一君が私の頭へ手を伸ばそうとすると、十夜さんに素早く引き寄せられ、胸元に顔を埋めるような格好になった。

「凛子さんは抹茶オレよりクリームあんみつの方がお好きですよ」
「と、十夜さん」

 十夜さんの子供っぽい一面を久しぶりに見た気がした。
 健一君は呆気にとられていたが、私が困ったように笑うと、それにつられて「参ったな」と言いながら笑った。

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