恋衣 ~呉服屋さんに恋して~


* * *


 健一君が去った後、私は気恥かしくて十夜さんの顔を見られずにいた。
 十夜さんは何事も無かったかのように接客をこなし、いつも通り、どんな女性でも見惚れてしまうような笑顔を振りまいている。
 ここにキスされたんだ。
 私はそっと自分の手の甲を見た。痕は残っていないけど、まだ温もりが残っている気がする。

「お望みでしたら、全身にキスをして差し上げますが」

 接客を終えた十夜さんが、背後から近寄って私の耳元で囁いた。低く甘い声音が私の耳をくすぐる。

「なっ、け、結構です……い、今は……っ」
「今は……ですか」

 クスクスと十夜さんが笑う。
(だって、キスは欲しいです)
 飽きるほどキスして欲しい。抱き締めて欲しい。もっと、十夜さんの気持ちを聞かせて欲しい。

「まあ、断っていたとしても、僕がしたいので却下ですけどね」
「と、十夜さんっ」

 顔が熱く火照っていく。お手伝いを始めてから、どんどん十夜さんと距離ができていたと思ったけれど、それが一気に埋まった気がした。
(十夜さんに心境の変化があったのでしょうか)
 私が頬を押さえながら十夜さんを見ると、その視線に気付いた彼は私に優しく笑いかけてくれた。

「僕は凛子さんの言葉がとても嬉しかったのです。悩みが一気に吹き飛んだ」
「悩み……ですか?」

 私は自分のことばかり考えていて、十夜さんが悩んでいたなんて全く気付かなかった。

「はい。そのお話は……仕事が終わった後、花火を見ながらしましょうか」
「花火、ですか。でも十夜さん、後片付けがあって……」
「ええ、でもどうやらこの近くでも高い場所なら、花火が見えるそうですよ。小さいものになりますが……それでもよければ、片付けをした後でも間に合いそうです」

 そう言いながら、十夜さんは伝票の近くにあった一枚の地図を取って差し出してきた。

「実はずっと考えていたんです。凛子さんに片付けがあると言ったものの、やはり一緒に見たいな……と」
「十夜さんもですか?」
「はい。なので、暇があったらパソコンで探していたんです。あ、さぼっていたなんて言わないでくださいね」

 そう言って十夜さんは苦笑した。
 私がお昼から帰っていると、よくパソコンの前に座っていたし、ご飯も食べた後だった。それは花火が見える場所を探してくれていたからだったんだ。

「でもなかなか見つからなくて、翠さんはこの辺り住んでいたことがあるので、聞いてみたんですよ。そうしたら昨日、教えてくれて……」

 翠さんが「十夜さんから連絡があった」と言っていたのは、このことだったのか。
 十夜さんが私のために花火が見える場所を探してくれているのに、私が自分に自信がないばかりにウジウジしていて。翠さんから見ればかなり腹が立つものだったと思う。

「この展望台なのですが、誘おうかどうしようかと迷っていたのに……先に凛子さんに見られたかと思いまして」

 だから、十夜さんは伝票の側へ行った私を見て、あれほど慌てていたのだ。
 引っ掛かっていたことが繋がり、少しだけ安堵する。でも、それならそうと……。


* * *


「……早く誘って欲しかったです」

 素早く片付けを終えてショッピングモールから出ると、十夜さんの車に乗り込んだ。
 助手席に座った私は、隣で涼しい顔で運転している十夜さんを恨めしそうに見つめた。その視線を感じ取った十夜さんは、参ったように苦笑して鼻の頭を掻いた。

「何度か誘おうとしたのですが……不安だったんです。凛子さんを……僕が縛り付けていいのか、と」
「十夜さん……」

 私が不安だったと同時に、十夜さんも不安を抱えて悩んでいたのだ。全く気付かなかったけれど、妙に触れてこないところや、仕事のこと以外あまり話さなかったのはそのせいだったのだろう。

「母に紹介しようとも思いましたが、もしかしたら呉服屋の仕事に嫌気がさして逃げ出したくなるかもしれないでしょう。だから少し待ってみようと思いました。結構、小心者なんですよ」

 十夜さんは自嘲しながらハンドルを切った。車は展望台がある、曲がりくねった山道を登って行く。他の車は見当たらず、街灯も少ない。花火が上がり始めたらしく、音が遠くから聞こえてきた。

「結局、凛子さんに逃げられるのが怖くて、負担にならないよう配慮し過ぎてしまいましたが」
「それが原因で、私は自分が役立たずなんだと随分へこみました」
「すみません」

 素直に謝る十夜さんが愛しくて、私は左右に首を振って否定した。
 何もかもがわかった今、私は自分がどれほど大切にしてもらっているかやっと気付けたのだ。

「でもそうしていたら元彼が現れるでしょう。僕も焦りました」

 十夜さんは展望台の駐車場に車を停めた。他に車は二、三台停まっていたが、駐車場にはまだまだ余裕があった。

「すみません……別れてからはずっと連絡を取っていなかったのですが」
「許しません。というわけで、山道を登る時は僕の手を握っていてくださいね」
「十夜さん……」

(それでは罰になりませんよ)
 クスリと笑いを漏らし、私は差し出された手を握った。

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