『無明の果て』
園の歌声のかわりに、スタンダードなジャズがかかり、マスターはそのまま席を外した。


「驚いた?」



「うん。
あの曲は生きていたんだね。」



「そうよ。

就職するころ、悩んでたからさ、何かしていないと不安で仕方がなかったの。

必死で作ったわよ。
あの曲好きだったし。
歌うと思い出しちゃうんだ。
あの頃のこと。

ごめんね、一行に断りもなく勝手に歌って。」



「いいよ。
園のものだよ。
園はこういう曲を歌いたかったんだね。

タイトルは何ていうの?」



「楽園」




その時ドアが開き、広くはない店の席が少しずつ埋まり始めた。



園には黙って、店を出た。







「もしもし、麗ちゃん…」



「楽園」の歌詞の中にあったフレーズが、頭の中を廻っている。



”愛されているはずなのに、愛しているはずなのに…“



「麗ちゃん、聞こえる?」


長い呼び出し音がこのまま永遠に続くような、不安な気持ちはなんだろう。


愛しい人が遠くにいる事をわざと確認させているような、行くあてのない道を歩く、孤独に似た恐怖が、耳の奥深くを鈍い音で響かせ続けている。



もう仕事をしている時間なんだと、自分で自分に言い聞かせて電話を切ろうとした時、麗子の小さな声がやっと返ってきた。



「一行、何かあったの?
驚いたわ。」



「ごめん、麗ちゃん…
仕事中だよね。
ちょっと声が聞きたくなっただけなんだ。
またメールするよ。
ごめん。」



「一行、ちょっと待ってて。
こっちからかけ直すから。
じっとしてて。
一行、そこにいてよ。
わかった?」




偶然のような運命なんて、信じないと言おうとしたんだ。



はじめから、僕達は出会う運命だったと、そう言おうとしたんだ。


暗い路地の片隅で、麗子が隣にいない心細さで座り込んでしまった男の事を、人は若いからだと、簡単に片づけてしまうんだろう。



「もしもし一行、何かあったの?」
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