『桜が咲くにはまだ早い三月』
第十章  『明日』  二節


浩太の母親は私の手を握ったまま、私を隣に座らせ言った。


「いつもと何も変わらずに出かけて行ったのよ。

転勤だって云っても、週末には帰るんだから見送りは止めてくれって。

由香ちゃんが来るのにマザコンだと思われるからって言ってね、

あの子、じゃぁ行って来るよって。

大きなバッグ抱えてね。

どうしてこんな事になっちゃったのかしらね…


ごめんなさいね。

本当にごめんなさいね…」


母親は何かを悔いるように、

まるで自分自身の過ちを責めてでもいるように

そっとうつむいた。



私は知っている。

この愛に私の想いなど決して叶わない事を。



両手両足をもぎ取られても守るべきものが、

理不尽に壊されようとしている。



「お医者様がね、内臓破裂してますって。

頭蓋骨も骨折してるから、手術してみないと分からないって。

手術はね、何時間かかるか分からないって言われたのよ。」



浩太

浩太…

約束したよね。


浩太と二人で一緒に生きて行くって。

その言葉を荷物に入れて持ってくって。

その大きなバッグにちゃんと入っているんでしょ?

荷物に詰めたままじゃ、

そんなんじゃダメじゃん。



「お母さん

大丈夫ですよ。

浩太はそんな弱いやつじゃない。

絶対、大丈夫ですよ…」


史彦が必死で絞り出した言葉に、

私達はみんなすがりついていた。



誰も保証などしてくれない明日を、

私達は太陽を浴び眩しさに身体をさらして

当たり前のように迎えているけれど、

いつかその日の太陽が、私に影を作らない時が来るかもしれない。


でも浩太

浩太にはそんな事させないから。

私はここで待ってるよ。



それから何時間経ったのか分からないまま、

私達はただひたすら祈り、そして浩太を待ち続けた。



外がすっかり暗くなった頃、

それまで静かだった廊下が慌ただしくなって、

年配の看護士がひとりこちらへ向かって歩いて来た。



「もうすぐ手術が終わります。

先生からお話がありますからお部屋へ案内しますね。

お母様ひとりでよろしいですか?」



「あの、浩太は?

手術は上手くいったんですか?」


私の声は廊下中に響き渡った。



看護士は

「詳しい事は先生からお聞きになってください。

術後はICUに移りますから。」


そう言って私達を促した。


人は悲しい痛みと戦う心の準備を、いつ身に付けるのだろう。


誰も教えてなどくれはしない。


私は今にも倒れてしまいそうな母親の手を、

包み込むように強く握った。




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