『桜が咲くにはまだ早い三月』
第十章  『明日』  一節



タクシーを降りた私の元へ、病院の入り口からサクラが小走りで近づいて来た。

泣きはらした瞳で。


「由香」

そう言ったきり私の腕をつかんで病院の中へと進み、

何も言わずそのまま人気のない廊下まで私を連れて行った。


そこには、安西史彦が待っていた。


何?

いい加減にして・・・

私は私の自由の全てを奪われたような錯覚の中にいた。


そして、サクラの熱い手の感触が私の気持ちをいら立たせ、

私はサクラの手を思い切り払いのけた。



勝手な事しないで・・・

私を縛りつけないで。


「サクラ、ちょっと待って。

浩太は?

浩太はどこにいるの?


無事なの?

何が起きたのよ…

どうしてサクラがここにいるのよ…


早く浩太の所へ連れて行ってよ。

早く…」



私だけが何も知らないなんて。


ここに来るまで我慢していた不安や、

どうしていいのか分からない気持ちの置き所が、

行き先を探して悲鳴をあげた。


サクラのコートを強くつかみ、サクラを責めるように

サクラの身体をゆすって、私は声を殺して泣いた。


史彦は私の肩に手を置いて


「由香ちゃん、俺から話すよ。」と


私とサクラの間に入り、

そして史彦は今日起きてしまった出来事を私に話し始めた。



「由香ちゃん歩ける?

浩太、交通事故にあったんだ…

今、手術してる。」


そう言いながらエレベーターを指差し


「浩太のとこに行こう。」


と私の背中を静かに押した。



「浩太さ、駅に向かう途中でトラックにはねられたんだ。

俺の会社、駅前にあるの知ってるよね。

お昼にこれから転勤先へ行くって顔出しに来たんだよ。

転勤って言っても近いから週末にまた飲もうぜって、

すぐに帰って来るって張り切ってたんだ。


サクラはうちの会社で設計の仕事頼んでるから、

たまたま打ち合わせで来てた所でさ、偶然なんだよ。

由香ちゃん、本当に偶然だから。」



そして史彦は続けた。


「ちょっと話して、

由香ちゃんと約束してるからってすぐに出て行ったんだよ。

早く行かないとって。

サクラも気まずそうだったしさ。

で…

少ししたらサイレンが聞こえて来て…

何だか外が騒がしくなって…」


史彦の肩が大きく揺れて、涙が何粒も何粒も床に落ちて行った。



「胸騒ぎがしたんだよ。

浩太じゃないかって。

何だか分からないけど浩太なんじゃないかって。」


私の胸騒ぎは、本物だった。


悲しみに寄り添う私達の影は、どこに向かって伸びているの。



「交差点の角の本屋で小学生が自転車で信号待ちしてたらしいんだ。

その自転車をトラックが引っ掛けて、

その小学生が転んだのを浩太が助けたって。

その時タイヤに巻き込まれて…」



「安西君、分かった。

分かったよ。」


私の悲しみも史彦の悲しみも、それは同じ重さなんだ。


浩太を想いやる心はみんな同じ。



サクラだって…


同じなんだ。



そして私たちは、浩太が手術しているという場所へ向かった。


静まり返った見慣れない建物の中、

手術室へ続く廊下のベンチに座っていた人は、

私を本当の娘のように迎えてくれた
優しい浩太の母親だった。


それは同じ人とは思えないほどうなだれた、

憔悴しきった姿だった。



私を見つけ、少しだけ微笑んで


「由香ちゃん、ごめんね。

駅で待ってたんでしょう?」


と私の手を握った。



冷たい、氷のような冷たい手だった。



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