『桜が咲くにはまだ早い三月』
第十一章  『夢』 一節



あの日私は、ベッドに横たわる浩太の傍らで、

浩太の頭、顔、胸、腕、手、足、

ありとあらゆる傷ついた所を静かに撫で、

そんな事しか出来ない自分と必死に戦っていた。


幼い頃、

痛い痛いの飛んでけーと、おまじないをしてもらったように、

そうしてもらうだけで本当に痛みが無くなっていったように、


私は小さな声で


「痛いの痛いの飛んでけー

浩太、大丈夫だからね。

痛いの痛いの飛んでけー」

と、祈り続けた。


時々、血圧計が自動的に動き出して、

ウーンと唸りをあげながら数字を映し出したり、

心臓の波形が今の浩太の力を知らせていたのを、

ドキドキしながら見つめていた。



浩太はここにいる。

私とこうして一緒にいる。

なのに、浩太の瞳に私が映ることがないなんて、

「由香」って呼んでくれないなんて、


浩太、そんな事って有り得ないよ。



看護士は私の顔を見ずに

「仲が良いのね。」

と言いながら私の横に来て


「そろそろ休ませてあげてね。

後は私達がお世話させていただきます。

一生懸命、看護させていただきますから。」

と、私に向かって丁寧に頭を下げた。


その看護士の言葉は私の張り詰めた緊張を壊し、

そして息苦しくなるほどの嗚咽を運んで来た。


「よろしくお願いします。」

と言うだけで立って居られずに、私はその場にしゃがみこんで

涙にまみれた顔を覆った。


それで精一杯だった。



「浩太、すぐに来るから。」

と声をかけて、私は部屋を出た。


すると

「ちょっと待って。」

と、看護士は私を呼び止め


「これ、田辺さんの洋服からでて来たんだけど、

あなたに渡して良いかしら?」

と、封筒に入った物を私に渡した。


くちゃくちゃになり、少し血のにじんだその封筒をそっとあけると、

そこにはこれから住む新しい街の住所と、

その部屋の鍵が入っていた。


封筒の表には


「由香へ

一緒に生きて行こうね。」

と浩太の文字で書かれていた。


浩太、新幹線のホームで私にこれを渡そうと思っていたの?



看護士は

「渡せて良かった。」

と言って、部屋の中へ戻って行った。


意識のない浩太から、

私に送られたメッセージ。



この鍵で開けるはずだった部屋は、どんな夢を運んだのだろう。

この鍵でつながる私たちの未来は、どんなものだったのだろう。




でも、


でも、



心の鍵はここにある。






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