『桜が咲くにはまだ早い三月』
第十一章  『夢』  二節



ひとり病室の前で握りしめた鍵は、

いつか使われる日を待ち続け、

その行き先をさまよう迷子のようだ。


この鍵で開けるドアは何色?


ドアを開けた先に見える部屋には、

どんな風景が広がっているのだろう。



看護士は

「ズボンの後ろポケットに入っていたの。

そのキーホルダー、

少し曲がっちゃったけど壊れなくて良かったわね。」

と、私を慰めた。



そのキーホルダーは、赤と青と黄色に彩られた三つ葉の形をしていた。


ガラス玉のような半透明の葉っぱは、

涼しげで寄り添うように重なり合い、

穏やかで幸せそうに見えた。


だけど浩太

こういうのを選ぶ時は、普通 四つ葉じゃないの?

浩太、わざわざ三つ葉を選んだのは何か意味があったの?

教えて…

教えてよ…

それはね…って、

ほんとはね…って聞かせてよ…


一緒に生きて行こうねって浩太がこの封筒に書いた始まりの時を、

この鍵は浩太のそばで見つめていたんだ。


私はその鍵を封筒に戻し、きれいにたたんで、

バッグの奥にしまい込んだ。


一緒に生きて行こうと書いた意味を私はしっかり受け取り、

私はこの鍵に未来を託した。



そして私は会社に可能な限りの有給を申請し、

そのほとんどの時間を病院で過ごす決心をした。


そうしない訳にはいかないと、私の気持ちは焦りばかりが募り、

それと同時に、辛い時間の中に身を浸す現実を覚悟する日々が訪れた。


一日のうちに浩太のそばに居られる時間は限られていたけれど、

浩太の母親一人より私と二人で寄り添う方が、

祈りが何倍も叶いそうな気がした。


家族でもない私が勝手なことをしてはいけないと、

叱られる覚悟をしていたけれど


「由香ちゃん、ありがとう。

ありがとう。

ありがとう。」

と、浩太の母親は私の腕の中で泣いた。


私達はたくさんの話をした。


悲しみの真ん中に座り、不安に押しつぶされそうになりながら、

もう何年も前から知っていたように、

まるで母と娘のように浩太の話をした。


「浩太はね」…って、

「あの子はね」…って、

私の知らない浩太の今までを伝えようとする母親の様子は、

何かに追われてでもいるような、切実な何かを感じとっているように見えた。


浩太は、ずっと眠ったままだった。

時々、医師や看護士が慌てて入って来たり、

私の知らない専門用語があちこちで飛び交い、

そのたび、私の心拍数を上昇させた。


浩太の手を握って私の頬にあてると、

浩太の指先が唇に触って私の涙がそこで止まった。



浩太

泣くなって言ってるの?

私の涙を拭いてくれたの?


それを見ていた母親が

「由香ちゃん、浩太に出会ってくれて感謝しているわ。」

と、

「浩太、由香ちゃんと一緒に居れて幸せね。」

と、浩太の耳元で囁いた。





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