『桜が咲くにはまだ早い三月』
第十二章  『現実』 二節



事故から四日目

病院にずっと泊まり込んでいる母親の代わりに

まだ目覚めない浩太に付き添うため、

私は早朝から病室に向かった。


「由香ちゃん、用事が済んだらすぐに戻るから浩太のことお願いね。

あ、何かあったら携帯に電話してね。

ごめんね、すっかり甘えちゃって。」


眠れない日々が続いて疲れた様子の母親は、

たったの数日で何年もの時を越えたように見えた。


私は

「じゃあ、お母さんの携帯番号教えてもらって良いですか?」

と何気なく言った。


だけど返って来た返事は考えもしないものだった。


「由香ちゃん

浩太の携帯に電話して。

ほら…これ。


由香ちゃんからの着信だらけの携帯。」



「えっ…

その携帯…

無事だったんですか…

もうダメになったとばかり思ってました。」


「昨日、警察の方が病院まで届けてくれたらしいの。

浩太が助けた子、

自転車に乗ってた小学生が拾ってくれたらしいって言ってたわ。

浩太が無事に戻ったみたいで、ちょっと嬉しかった。」


母親はそれを大事そうにバッグにしまった。




浩太

私達はやっぱり、つながっていたんじゃない。

あのベルの着信音は、浩太を呼び続けていたんじゃない。


何度かけたのか分からないくらい鳴らしたベルの音は、

浩太の耳には届くことなく、

道端で、ざわめく人々の狭間で無情に鳴り続けていたんだ。



「そうですか。

分かりました。」



そして私は浩太に話しかけた。


北村隆子が言ったように、

絶対に浩太の耳に聞こえていると信じながら。



「浩太

着信音が私と同じだったって気づいてた?

それで好きになったって知ってた?

いつかあの鍵で、浩太が暮らすはずだった部屋のドアを二人で開けようね。


浩太…」


そう言いかけたその時、

かすかに枕が動いて浩太が小さいうなり声をあげた。


私は慌ててナースコールのボタンを押した。



「田辺です。

なんだか苦しそうなんですけど。」



バタバタと部屋に入って来た看護士達は、私に向かって

「廊下で待っててください。」

と言い、その中にいた北村隆子は

私の方を向いて大きくうなずいた。


足がすくんで私は廊下の床に座り込んだ。



浩太

私の声が聞こえてるんだね。

そんな事初めから知ってるよって、答えてくれたの?



私は携帯を取り出し電話をかけた。

もう二度とかけることなどないと思っていた、

浩太の携帯に。


同じ着信のベルの向こうで、浩太が待っている気がした。





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