『桜が咲くにはまだ早い三月』
第十二章  『現実』 一節



私も話したかったと言ったそのわけは、

思いも寄らない彼女の過去だった。


一生懸命、看護させていただきますと私に言った時、

私は深く頭を下げたその姿に感動し、

この仕事に携わる人の強い心を見た気がしたのだ。


でも、それとは別の、

それ以上の深い真実があったなんて。


どんな言葉で返事をしたらいいのか分からず、

私は黙ったままの彼女の横顔を見つめていた。


「あら、ごめんなさい。

私の事は関係ないわね。

田辺さんがここに来た時の話をすればいい?」


彼女は少し疲れた様子で私に聞いた。


私は黙ってうなずいたけど、

心臓が一気に高鳴って、思わず手で胸を押さえ大きく息を吐いた。。


「由香ちゃん。

由香ちゃんが彼の奥さんなら何でも話せるんだけどね、

守秘義務って知ってる?

無理な事もあるのよ。

個人的には話してあげたいんだけど。

恋人になら話したって良いのにね。」



「あ…

いえ…」



私は気づいていなかった。


私がどんなに祈っても、一日中そばに居たとしても、

私は浩太の髪の先でさえ自由になど出来ず、

二人で約束しているからと力んでみても、

それを証明するものなど何もないんだと云うことに。


「由香ちゃんが聞きたいのはこれからの事?

それとも、ここに運ばれて来た日の事?」


そう言ってからすぐに


「これからの事なんて誰にも分かるはずないよね。」

と、言い直した。


そして話し始めた。


「あのね、ここに来た時、

田辺さん少しだけ起き上がろうとしたのよ。

動かないはずの身体なのに、

どこか行かなくちゃいけないみたいに起き上がろうとしてた。


何か夢でも見ていたのかしら?」



浩太、

駅で私が待ってるから走っていたの?

遅れないように、あの三つ葉のキーホルダーが付いた鍵を私に渡すために、

走っていたというの?



「駅で待ち合わせしてたんです。

転勤が決まって、見送りの約束をして…

あの日の朝、待ってるからって…

遅れないで来てねって…」


しゃくりあげながらやっと言葉を絞り出した私に


「そう。

そうだったの。

大好きなのね、由香ちゃんのこと。」


そう言って彼女は椅子を近づけて、私の横に並んだ。

そして私の背中をさすりながら


「由香ちゃん。

由香ちゃんの声は聞こえていると思うの。

彼はここに運ばれて来ても、必死で走ろうとしてたんだもの。

聞こえていないはずはないわ。」


震える声で私は聞いた。


「北村さん、私はここで何をしたらいいんですか。

教えてくれませか?

分からないんです。」


彼女はしばらく考えていたけど


「由香ちゃん。

ごめんね。

何か答えを見つけなくちゃいけないのかもしれないけど、

私には難しすぎるわ。

分からないわ。


聞いてくれる?

私ね、事故で私だけが生き残ったって知った時、どうしたと思う?

夫がもう居ないんだって分かった時。」


「え…」


「わたしね、看護士が居ない時に私の身体に付いてた輸血や点滴やいろんな管、

みんな自分で外したの。

看護士の仕事してたくせにね。


そうしたら死ねると思った。

生きていたってしょうがないって。

彼の所に行きたいって。


でもね、看護士が気づいて走って来たの。


泣きながら私に言ったのよ。

一生懸命お世話させていただきますからって。

私に出来る限りの手伝いをさせてくださいって。

生きてくださいって。」



それは北村隆子が、あの日私に言った言葉だった。



自分だけが生きてしまった現実に、

彼女は今も向き合っているんだと、

背中に置かれたままの優しい手のぬくもりが言っている気がした。




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