『桜が咲くにはまだ早い三月』
第十二章  『現実』 四節



事故から五日目


この日の浩太は、

休日の朝方、ちょっとのんびり寝坊でもしているような

穏やかな表情をしているように見えた。


酸素マスクを外して、思い切り深呼吸をして、

静かにゆっくり目を開けて

「あぁ、良く寝た。」

なんて言って、この綺麗な指で私の髪を撫でて、

変わったことなんか何もなかったように起き出して来そうな、

そんな事を想像させる姿に見えた。


毎日 何度かは担当の医師や看護士がバタバタと部屋に入って、

浩太の身体をチェックし機材をそれに合わせ、

たくさんの薬を与えて行った。


私と母親は手を取り合い祈り励まし合い、

その瞬間が通り過ぎるのをただじっと待った。


浩太の身体の中で起きている事の恐ろしさは、

私も母親も日に日に大きく感じて取ってはいたけれど、

それを口にする事は一切なく、

そうしていないと何かとんでもない事態が舞い込んで来そうな気がして

言葉には出来ずにいた。


だけど、今日は何だかここに来てから一番穏やかな表情に見えた。


「お母さん

今日の浩太、優しそうな顔してると思いませんか?」


私は窓の外を眺めていた母親に話しかけた。


「ほんとね。

由香ちゃん、

やっぱり浩太はみんな聞こえているんじゃないかしら。


私達がここに居ることも分かってるような気がするわ。

あのね、これ…」


そう言って、バッグの中から水色の封筒を出し、

私にそっと手渡した。


「え?

これ何ですか?」


母親は私の横に座って言った。



「あのね、浩太が助けた小学生がいるって言ったでしょう。

事故の日から毎日、お母さんとお見舞いに来てくれてるのよ。


すみません、すみませんって…

何も悪くなんかないのに気の毒なくらい私に謝ってね。

頭上げないのよ。


その子も可哀想よね。

自分のせいで浩太が怪我したって泣いてたわ。

ごめんなさいって。


何だか小さい頃の浩太みたいでね、

この子がちゃんと病院まで来てくれた事が

わたしとっても嬉しかったの。

お母さんも偉いわよね。


私ね、大丈夫よって、

君のせいじゃないのよって抱きしめたの。


そしたら、これをお兄ちゃんに渡してくださいって…

手紙…

さっき浩太に読んであげたのよ。

そしたら穏やかな表情になって…」


母親はまた立ち上がり、窓の外に目を向けた。



私はその封筒から便箋を取り出し、ゆっくり開けた。


一枚だけの便箋には、幼い文字が並んでいた。





「お兄ちゃんへ


ぼくを助けてくれてありがとう。


お兄ちゃんがぼくを助けたかわりに、

ケガをしてしまってごめんなさい。


早くなおるようにがんばってください。


  翔太」



翔太…


浩太…


似てるね、名前。



よく見ると何度も何度も書き直した跡があった。


それは精一杯の気持ちを伝えようとしている事が

私達にちゃんと伝わる手紙だった。


浩太

浩太にもちゃんと聞こえていたんだね。



でも、

あの廊下にいた少年の未来を救った浩太が

私の未来に居るはずの浩太が

どんな明日を運んで来るのかなんて

私に何も教えてはくれない。




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