あの夏よりも、遠いところへ
すごい、と彼女がつぶやいた。
「きっとすぐに、私は蓮に背を追い越されてまうね」
「当たり前やっ。俺はもっと大きくなったんねん!」
「うん、楽しみやなあ」
困った顔が笑顔に変わった。よかった。
俺は、いまはまだサヤよりも背も低いし、ただのガキだけど。ちゃんとこうして彼女を笑わせられることだってできる。
サヤが笑ってくれるなら、俺、サヤが飽きるまで毎日ここに会いに来る。いや、飽きたって会いに来る。
「ピアノもめちゃくちゃ上達したもんねえ」
「おう。家でも妹のピアノでめっちゃ練習してんねんで」
「スミレちゃん、やっけ。いつかスミレちゃんにも会わせてな」
家でもピアノを弾く俺に、スミレは最初、とても驚いた顔をしていた。スミレだけじゃない、父さんも、母さんも。
最初こそ笑われていたものの、最近ではもう、たぶんあいつよりも俺のほうが上手い。そりゃ、週に一度ピアノ教室に行っているだけの怠け者なんか、毎日ちゃんと練習していれば追い抜くっての。
「練習曲、ずいぶん弾けるようになったね」
「おう」
「夏休みもそろそろ中盤やし、ぼちぼち『パガニーニの思い出』の練習もしよか」
うわ、いよいよだ。俺がサヤに出会ったきっかけの、あの優しい曲。
彼女が本棚から取り出してきたその楽譜はどこか古い匂いがして、どきどきする。