あの夏よりも、遠いところへ

すごい、と彼女がつぶやいた。


「きっとすぐに、私は蓮に背を追い越されてまうね」

「当たり前やっ。俺はもっと大きくなったんねん!」

「うん、楽しみやなあ」


困った顔が笑顔に変わった。よかった。

俺は、いまはまだサヤよりも背も低いし、ただのガキだけど。ちゃんとこうして彼女を笑わせられることだってできる。

サヤが笑ってくれるなら、俺、サヤが飽きるまで毎日ここに会いに来る。いや、飽きたって会いに来る。


「ピアノもめちゃくちゃ上達したもんねえ」

「おう。家でも妹のピアノでめっちゃ練習してんねんで」

「スミレちゃん、やっけ。いつかスミレちゃんにも会わせてな」


家でもピアノを弾く俺に、スミレは最初、とても驚いた顔をしていた。スミレだけじゃない、父さんも、母さんも。

最初こそ笑われていたものの、最近ではもう、たぶんあいつよりも俺のほうが上手い。そりゃ、週に一度ピアノ教室に行っているだけの怠け者なんか、毎日ちゃんと練習していれば追い抜くっての。


「練習曲、ずいぶん弾けるようになったね」

「おう」

「夏休みもそろそろ中盤やし、ぼちぼち『パガニーニの思い出』の練習もしよか」


うわ、いよいよだ。俺がサヤに出会ったきっかけの、あの優しい曲。

彼女が本棚から取り出してきたその楽譜はどこか古い匂いがして、どきどきする。
< 13 / 211 >

この作品をシェア

pagetop