あの夏よりも、遠いところへ
「いろんな書き込みがしてあって汚いけど、許してな」
少し色褪せたそれには、細かく色々なことが書き込んである。それはサヤがこの曲を練習した証で、彼女の歴史でもあるんだ。
そういえば俺、サヤのこと、なんにも知らねえじゃん。
「あのさー。サヤはいつからピアノ弾いてるん?」
「えー、いつからやろ。もう物心ついたときには、この椅子に座らされてたかなあ」
「めっちゃ長いやん!」
「まあね、私のピアノの先生はお母さんやったからね。お母さん、音楽の大学でピアノ教えてるねんよ」
そうか、あたりまえだけど、サヤにもオカンがいるんだ。
変だけど、ちょっと安心した。彼女はどこか人間離れしているから。上手く言えねえけど。
「やからな、私も音楽の先生になりたかってん」
「事情がある言うてたけど、もうほんまに無理なん?」
「うん、そうやね……無理やと思う。でもええねん。私には蓮みたいな素敵な生徒がおるから、それだけで幸せ」
俺は最初の生徒なんだと、彼女は恥ずかしそうに教えてくれた。
……そうなのか。嬉しいな。
もっともっと練習して、上手になって、サヤを喜ばせてやりたい。いつか彼女が胸を張って、「この子は私の生徒やねんで」と自慢できるような奏者になりたい。
俺、サヤのためなら、なんだってできる気がするんだ。