あの夏よりも、遠いところへ
彼女はいつもこうして、レッスンの前には決まってなにか1曲演奏してくれる。
いつも違う曲を弾いてくれるけれど、彼女が楽譜を開くことは一度もなくて、本当にすごいんだ。だって彼女はあまりに簡単に弾いてみせるけれど、ピアノって楽器は、本当はすっげえ難しいんだぜ。
「……はい。きょうはモーツァルトのピアノソナタでした」
「なあ、その曲聴いたことある!」
「ほんまに? いつか蓮と、モーツァルトの『2台のピアノのためのソナタ』を連弾できたらええなあ」
「レンダン?」
「同じ曲をふたりで弾くねん。蓮と一緒に弾けたら絶対楽しいと思って」
レンダンかあ。サヤとふたりで同じ曲を。そんなの、考えるだけでわくわくする。
「もっともっと、蓮にはいろんなことを教えたい」
「いろんなこと?」
「うん。曲もそうやし、作曲家とか、音楽史とか。私の知ってること全部、蓮に教えてあげたい」
栗色の髪を揺らしながら困ったように眉を下げた彼女の表情はどこか切なくて、どうしていいか分からない。
時々こんなふうに、どうしようもない感じに襲われるから、サヤは困るんだ。
「……俺、毎日来るから!」
「え?」
「夏休みが終わっても、中学生になっても、……高校生になっても! 毎日来るからっ」
だから全部、教えて。俺の知らないこと、全部。